2000年04月29日

◎第117回【多摩の自然歩道】

4月29日は、JR東日本主催ちーたび第2回多摩の自然歩道ウォークに参加。小田急やJRで南武線宿河原駅に43人が集合。面倒な受付を済ませて約15キロ、新緑が輝く晴天の下、10時30分、出発した。
小川沿いに歩き、川崎市緑化センターを横目にみて、商店街や梨園を抜け、山道を登り、等覚院の満開のつつじにしばし感激に浸る。山を下り、また上って生田緑地の日本民家園で白川郷の家を眺め、桝形山展望台に到着。休憩した人もいたが、先頭はもう出たと聞き、そそくさと周りを見て、また歩き出す。住宅街に下りて、小田急の踏切りを渡り左折。

東生田遊歩道の休憩所でお昼にするつもりが、行き過ぎてしまって、浄水場を過ぎたすごい上り坂の上の公園でやっと食事した。軽く体操してまた歩き出す。寺尾台のきつい階段をフーフー言って上り、団地を過ぎ、真っ白に輝くはなみずきの並木に歓声。スーパーマーケットを過ぎ、西菅公園を抜け、川崎市フルーツパークを横目にみて多摩自然遊歩道に入る。竹林でたけのこを見たり、尾根道をアップダウンしながら、急坂を下り小川を渡る。薬師堂(Aグループは入る)へはまた登るらしいのでカット。やっとJR稲田堤駅へ2時にたどり着いた。記念のビニール袋をもらって解散。京王線で帰宅。
山道や階段が多く、結構厳しいコースだったが、すがすがしく澄んだ空の下、若葉といろんな花が咲きそろい、素敵な一日だった。

Posted by taichiro at 14:30

2000年04月22日

◎第116回【代々木、下北沢巡り】

4月22日(土)午後1時、代々木小公園に集合したのは60人。快晴に恵まれもう初夏の陽気の中、体操をした後、春の小川記念碑を眺め、大使館巡り。
小田急を渡りブラジル、ブルガリア大使館。代々木八幡で竪穴住居を見て、ベトナム、クロアチア、ニュージーランド、モンゴル、マンション2階のジブチ、コートジボアール、トルコ文化庁のエキゾチックな塔、ウガンダと、各大使館を曲がりくねった町並みに、時々、道を間違えながら歩き、北沢公園に到着。ここで休憩した。

そのあと、東北沢駅を越え、三角橋で右折。松陰学園、教会、北沢タウンホールを見て、若者がいっぱいの一番街を通り、成徳学園前を左折、旧鎌倉街道をしばらく歩き、左折して森巌寺に入る。ここには樹齢600年といわれる銀杏の名木があり、貫禄たっぷり。江戸時代以前も知っている銀杏から見ると、我が一行、どのように映ったのだろうか。
隣の北沢八幡神社で整理体操をして解散。三々五々、若者の町、下北沢を散策。活気に満ちた界隈は私どものようなおじさん、おばさんも結構同化吸収してくれるような雰囲気があり、お茶を飲んだり、買い物をしたりして、半日の疲れを癒した。

Posted by taichiro at 14:29

2000年04月17日

四百字随想その54

1.雪の宿
(二〇〇〇.三.二七)=自分=
 雪はすべてのものを覆い隠す。緑も黄土も、その上、人の心まで隠してしまう。純白の美しさ、たとえその下に廃墟があろうと戦場があろうと太陽にきらめく雪は清楚で眩しい。昭和二十年の冬、中国東北地方、当時満州といわれた場所に孤児として私は存在していた。十歳であった。物心はついていたはずだが、どういう形で生活していたのか、皆目思い出せない。思い出せるのは戦闘である。人の殺し合い、それは大砲であり、機関銃であり、小銃であり、剣であった。目の前に人の生死があった。それがたまたま自分でなかっただけである。何の力もなく抵抗のしようもないのだが、不思議なことに恐怖心はなかった。建物が一瞬のうちに吹っ飛び、赤い血が流れる。ところが一晩経つと雪がすべてを覆い隠し、何事もないように純白の世界に戻ってしまう。そしてうごめくもの、それが生きている証拠であった。凍傷など何の気にもならない私の雪の宿であった。

2.教育改革
(二〇〇〇.四.三)=文化=
 教育の問題はだれでも口に出しやすい。ところが口を出す人間は常に過去の教育を受けた連中である。そういう教育を受けていながらさも自分だけはそういう改革を必要とする教育に影響を受けず、他の人間は教育によって多大な影響を受けてしまうようなことをいう。受験のための勉強、道徳教育、納税義務、大学のあり方等々。すべて自分が受けたものを否定する考え方から成り立ち、それでいて教育の影響力を云々している。不思議な現象である。私自身、教育によって何が変えられたか。何を得たか。素直に考えると読み書き算しかない。社会だ、理科だ、英語だ、体育だ、家庭だ、道徳だ、と言ってみたところで、結果的に会得したことはすべて自分の読み書き算の力でひも解いて自分で確かめた結果である。いいことでも悪いことでも読める力、自分の考えを表現する力、そして計算できる力。この力を百パーセントつけることだけを教育の原点としていただきたい。
(平成一二.四.三東京新聞夕刊掲載)

3.ピンク
(二〇〇〇.四.一〇)=季節=
 陽春四月、桜が似合っている。華やかで美しく力強い。その上、どういうものか、うきうきしてくる。何もかも忘れて花見酒で狂いたくなる。散ることは分かっていてもその瞬間、陽気に騒ぎたくなる。それは真っ赤な花でもなく、黄色い花でもなく、紫でもないから似合ってくる。桜色、言葉を変えればピンクである。枯れ木のような桜の木にいきなり花がついてしかも華やかなピンク。五日間はどんなに風が吹こうが嵐になろうが枝にしがみつき、花びらは散らない。ただし五日を過ぎるとすべて散っていく。散った後に初めて芽吹く緑葉。日本でピンクが流行るのはこの桜を愛する国民性ではなかろうか。憂さ晴らしに近い現象であるが、活力の源泉にはなる。ピンクには一方悪いイメージもある。ピンク産業とか、ピンク映画だとか言われる現象だが、それでも赤の過激さ、青の物悲しさ、そういうものに比べると平和なイメージがある。私はピンクは嫌いではない。

4.ランドセル
(二〇〇〇.四.一七)=社会=
 日本語としてすっかり定着してしまっている「ランドセル」。実はオランダ語でリュックザックと同義であるそうだ。しかし、ランドセルはもう小学新入生の代名詞のようなもので、私は孫の入学祝には絶対に出すことにして、権利を確保している。今までに二個、これからも最低二個は贈れそうだ。ところがこのランドセル、だんだん高学年になると人気がなくなり、六年生になるとほとんど別のものになり、中学生になると完全に消えるようだ。しかし、このランドセルがリュックと同じものだとすれば、これほど便利なカバンはない。まず両手が空けられること。それに均等に肩に重さがかかること。この二つで歩行という人間特有の行動が妨げられなくなる。私は今、ウォーキング愛好者になっているが、普通の場合でもリュック型のカバンにしている。このカバン、だんだん追い求めていくと限りなくランドセルに近づく。大人のランドセルを作っていただきたい。

Posted by taichiro at 09:47

2000年04月15日

◎第115回【伊豆城ヶ崎海岸ウォーク】

あいにくの雨模様だったが、4月15日(土)午前7時30分、予定していた26人全員が新宿駅から小田急ロマンスカーに乗車。一路小田原へ向かう。小田原からJRに乗り換え、伊東へ。伊東からバスで集合地富戸駅へ。大変スムーズな乗換えで10時35分到着。ところが受付で戸惑っているうちにお二人がどうも居ない。しばらく待ったが、先発したらしく見当たらず、最後の11時になって歩き始めた。

 いきなり急坂を下る感じで、富戸漁港へ。雨が本降りになり、合羽や傘の雨具で武装。ぼら納屋のトイレを横目に海の吊橋まで一気に歩く。高い所にあり下を覗くと結構恐怖心もあるが、意外に堅牢な吊橋で、少々の揺れではびくともしなかった。真っ白な門脇灯台の威容を見て、八重桜の並木道を通ったが、ここは瀟洒な別荘が建ち並び、優雅な雰囲気。城ヶ崎海岸駅にちゃんと向かった人はジュースがもらえたそうだが、うっかりソメイヨシノの桜並木へそのまま進んだ。伊豆海洋公園に到着。サーフィン広場に入って雨宿りしながら弁当を開く。後続隊を待ったが、待てど暮らせどやってこない。(後から聞くと公園に寄らず、そのまま蓮着寺に向かったとのこと。)
約30分休憩して表示に釣られてもう一つの「海の吊橋」に向かったのが運のつき、結構面白い崖道を下がったり上ったり、途中、30メートルぐらい真下まで見通せる洞穴に遭遇したりしてやっと近づいた海の吊橋。ところが左横に自動車道が見えるではないか。灯台もどうも見た覚えがある。なんと、門脇灯台だ。雨の中、艱難辛苦して元に戻ってしまった。もう一度、桜並木や崖道を通る元気も無く、自動車道をとぼとぼと海洋公園に戻る。蓮着寺前の炊き出しで鍋底の味噌汁をいただくが、もう一番ラスト。何時に出たのか、と聞かれて恥を掻く。
急いで自然研究路に入るが、アップダウンがきつい。晴れていればさぞかし気持のいい道で、途中の景色も絶景のはずとの思いはあっても、ただただ歩きつづける。周りの人は、あんなに急いで、きっと電車の時間が決まっているんだ、と話していた。「いがいが根」も「とよ」もただチラッと見ただけで通りすぎる。やっと本物の第2の海の吊橋にたどり着く。渡ってすぐまた引き返すとのこと。どうも悪天候でコースを少し変更したようだ。あとは一般道をたどって伊豆高原駅にゴール。
とうとう最後まで雨は上がらなかった。ここから直接伊豆急電車で帰る人。一泊してゆっくりされる方。そして半数の13人はバスを乗り継ぎ、伊東駅へ。伊東駅からJRで熱海。熱海で乗り継ぎ小田原へ。小田原から18時発のロマンスカーに乗るが、グリーン車を借り切った状態で新宿に19時10分到着。ラーメンが冷えた体に大変な贅沢に思え、満足してそれぞれ帰途についた。
晴れた日にぜひもう一度挑戦してみたい気分である。

Posted by taichiro at 14:28

2000年04月08日

◎第114回【両国相撲部屋巡り】

お釈迦様の誕生日、4月8日(土)、桜まつりでごった返す錦糸公園に集合したのは63人。満開の桜はここだけでなく猿江恩賜公園も素晴らしいという声を受けて午後1時、予定を変更してまず猿江公園に向かう。
約2キロの遠回りだ。そのおかげで真っ盛りの桜を堪能。いよいよ相撲部屋巡りに入る=括弧書きは親方の現役時代の関取名=。

友綱(魁輝)、安治川(旭富士)、宮城野(廣川)、花籠(大寿山)、間垣部屋(二代目若乃花)と巡り、北斎通に出て野見宿彌神社に立ち寄る。ここには石碑に歴代横綱の名が彫り込まれ、赤字は生存者だ。物故された横綱を偲び、そうでない横綱に思いを馳せ、つかの間の相撲通になる。
続いてちょっと回って八角(北勝海)、北斎生誕地から清澄通を通り二所ノ関(金剛)、竪川を越えて左折して二十山(北天佑)、また戻って三保ヶ関(増位山)と回り、桐の博物館で小休止。いきなり大勢の会員が入場したため博物館には迷惑をかけたようだ。
そのあと馬車道を通り大島(旭国)、出羽海(鷲羽山)、井筒(逆鉾)、春日野(栃ノ海)とくねくねと曲がり、両国駅近くの立浪(旭豊)と巡り、もう一つ陸奥(霧島)部屋も眺めて旧安田庭園に到着。ここで休憩した。広大な庭園の佇まいは意外に静か。
東京都復興記念館の横に再集合してから片男波(玉ノ富士)、若松(朝潮)、九重(千代の富士)と両国界隈にある19の各部屋をとうとう全部見て回り、タキナミグラス博物館に到着。華麗なガラス細工を見学。ここで若干の方は解散したが、出発地点の錦糸公園まで回遊して解散した。
=約13㌔=

Posted by taichiro at 14:26

2000年04月01日

◎第113回【上野の山、下谷巡り】

陽春の4月1日午後1時、東盛公園に集合したのは58人。体操をして歩き出す。
一葉記念館、飛不動、弁財天を通りぬけ、入谷鬼子母神にお参りし、小野照崎神社の風格ある小さな富士山を眺める。根岸界隈の昔ながらの家並みに感嘆しながら、円光寺を覗き、鶯谷駅手前を曲がり、元三島神社の桜と石段を仰ぎ、言問通りを右へ。凌雲橋で山手線を越え、寛永寺霊園のお墓の群像を眺め、寛永寺で休憩。
そのあとコースを変更して、言問通りをひたすら歩く。根津駅を過ぎ、弥生坂を登って左折。東大の狭間の暗闇坂を下り、奇妙な形のホテルの脇を通り、不忍池に到着。ABCがうまく合流し、水上音楽堂前で解散した。
咲き初めた桜に見とれながら、露天が立ち並び、ごった返す花見客を掻き分けて、帰途についた。

Posted by taichiro at 14:25