1999年01月30日

54.水の科学館見学

快晴の1月30日(土)午後1時、57人が牡丹町公園に集合。準備体操をした後、新装なった相生橋を渡り、朝潮大橋、春海橋を通り豊洲公園で小休止。
その後、東雲橋を渡り、東京ビックサイトで休憩。全員そろったところで、宮殿のような階段を上り下りして有明西埠頭公園、水の広場公園を通り、水の科学館に到着。このたび新会員となった東大のSさん指導による整理体操を実施して終了(約9㎞)。その後、全員水の科学館に入り、見学。水の重要性をゲーム感覚で会得した。

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1999年01月23日

53.サンシャインから三四郎池

 1月23日午後1時、池袋シンボルタワーサンシャイン脇の東池袋中央公園に51名集合。柔軟体操後、三四郎池目指し出発。高速道路下の入り組んだ交差点を抜け、程なく町の喧噪も薄れた雑司ヶ谷の寺町に入り、鬼子母神参拝。都電沿線を歩み、広大な雑司ヶ谷霊園を抜け、護国寺の屋根を左手に眺め、音羽の文教地区を進み、小石川の教育の森公園で小休止。
しゃれた洋風、和風の遊歩道を通り、間もなく「こんにゃくえんま」で先発組、しんがり組が合流し参拝。予定より少し距離を伸ばし東大農学部の方へ回り、本郷3丁目より三四郎池へ全員無事到着した。
約2時間、11㌔の行程で、当日は天候もよく絶好のウォーキング日和であった。(H.W 記)

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1999年01月16日

52.品川新都心から本門寺へ

1月16日午後1時、新装なった東西自由通路のある品川駅中央改札口前に集合したのは58人。品川インターシティーの通路だけでも1㌔近く歩いて東八つ山公園に到着。U先生の指導で体操。
まず品川宿本陣跡で当時の大名行列を偲び、いよいよ旧東海道を歩く。途中、品川はなぞの霊園という不思議な看板にびっくりしながら浜川橋の先から右折、品川歴史館まで直進。館内に入り休憩した。館内には大森貝塚で発掘された遺跡のレプリカや品川宿の模型があり、なかなかのもの。
ここから大森駅前を通り、右折して馬込文士村を散策したが、本門寺公園までの道は狭く、ほとんど一列になって歩いた。本門寺五重塔は解体修理中で影も形もなくがっかり、それでも壮大な本門寺の威容にしばらく感嘆。
ここで体操をして解散した。(約12㎞)

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1999年01月11日

四百字随想その40

1.ベビーカー
(一九九八.一二.八)=自分=
 ベビーカーと言われてもピーンとこないが、乳母車というと思い出がある。自分のことは本当は記憶の外であるが、写真に写っている乳母車が私の乳児時代。しかも二人一緒に乗っている。双子の片割れで一人は三歳でなくなっているため、強烈にこの乳母車が印象に残っている。しっかりしたもので、びくともしない感じである。このため、子供が産まれたとき、手に入れた乳母車も堅牢であった。三人の子供が使い、その上いろんな荷物運びにも役だった。車輪のゴムがすり減って布地部分がぼろぼろになってほとんど骨だけになっても子供達の遊びものとして活躍した。だがこの乳母車、電車やバスには乗ったことはない。子供達を交通機関に乗せる場合、歩けない間はおんぶ、歩けるようになって歩かないときはだっこ。人混みの中をベビーカーに乗せて歩くような危険に、妻は子供達をさらせなかったし、またその迷惑を人に押しつける勇気がなかった。  

2.カタカナ語
(一九九九.一.一八)=文化=
日本語の表記の素晴らしいところはいろんな方法があることだと信じている。漢字があり、「かな」があり、アルファベットも使える。ことに「かな」に「ひらがな」と「カタカナ」があるところが特徴である。表意文字と表音文字を持ち、表音文字を三つ持っていて、その使い分けによって表現が豊かになる。カタカナ語といわれるとき、たぶんに外来語をそのままカタカナに変換したものが多いし、まだ外来語として定着していない外国語の表記にも使われている。問題は意味も分からないままカタカナ語で書き、それが教養の表現と信じている輩がいることである。ちょうど漢語をそのまま使って教養の表れとしたのと似ている。ただ、そんな言葉でも残るものは残り、駄目なものは駄目である。もう「アイデア」などは日本語と言ってもいいし、「エレガント」も優雅とは少し違うような気がする。ただし「エクセレント」になるとまだ定着したとは言えない。

3.競争社会
(一九九九.二.一)=社会=
 今の社会、何事にも競争があって、競争があるからこうして進歩があったといわれている。本当にそうだろうか。私自身、確かにいろんな競争をしてきた。そして勝ったり、負けたり、いろんなことがあった。だがそれが一体何であったか。今、倒産があったり、失業があったり、その実体は競争に負けたからだとなるのだろうか。大学受験というのも競争かも知れない。その競争に勝っていい大学に入っていい会社に入って功なり名を遂げて社長になって、会社を破産させて責任を逃れて、それが競争に勝ったと言えるのだろうか。そうではない気がしてきた。会社を支えてきたのはいわゆる敗者といわれる下積みの人。社会を支えているのも下請けをしたり、一見誰にでもできる仕事を黙々として実行している人々のおかげのような気がする。競争社会といわれている実体をもう少しはっきりと見極め、いかに無意味なことに汲々としているかを知ってほしい。  
(平成一一.二.一東京新聞夕刊掲載)

4.お 年 玉
(一九九九.一.一一)=社会=
 子供達が小さい頃、正月に親戚まわりをするのを大変喜んだ。ご馳走にあずかることも大きな要因だが、何と言ってもお年玉をもらえることが一番だったようだ。
 そういう子供達がいつの間にか大人になり、親になり、お年玉は孫の時代になった。一つ、二つの頃はよく意味が分かっていないが、小学生ぐらいになると、やはり目の色が変わってくる。
 ただ、最近、お正月に年をとらなくなったので、どうも言葉の意味が浅薄になったような気がしてならない。数え年の考え方、復活してはどうだろう。正月を迎えると、みんなが一歳年が増える。無事、年をとることが出来たことを祝い、子供達にお年玉をあげて祝福し、ひいてはそこまで育て上げた親を誉める儀式。そういう儀式にお正月をしたい。
 もっとも子供達は自分たちの子ども、つまり孫を連れて正月はかつての私と同じように親戚まわりをしている。

Posted by taichiro at 09:32

1999年01月09日

51.総会と亀戸七福神巡り

1月9日(土)正午、猿江恩賜公園に集合したのはU先生はじめ何と63人。奇しくも前年設立総会時と同じ人員だった。正月晴れの絶好のウォーキング日和に恵まれ、亀戸天満宮、龍眼寺(布袋尊)、天祖神社(福禄寿)、普門院(毘沙門天)、香取神社(恵比寿神、大黒神)、東覚寺(弁財天)、常光寺(寿老人)と順調に亀戸七福神を巡り、江東区民センターに無事到着した。
総会は午後2時、区民センター7階第5会議室で班別に席について開催。1周年記念特集号に基づき、会計担当から収支報告があり、その後、班別に懇談。今後の例会について活発な意見の交換があり、盛況裡に終了した。
なお、U先生から東京大学大学院医学系研究科の心身医学を専攻しているSさんの紹介があり、ウォーキングが及ぼすストレスとの関係についてのアンケートに対する協力依頼がSさんからあったので、全面的に協力することとした。

Posted by taichiro at 13:04

1999年01月01日

番外 若洲で初日の出拝む

元旦5時、新木場に集まり、番外編として若洲海浜公園で初日の出を拝んだ。天気晴朗波静か、日の出直前、五十羽近くの水鳥が太陽に向かって飛び立った瞬間、黄金色の点がぴかっと光って見る見るうちに巨大な円になっていく様、思わずみんなで万歳三唱をした。参加者15人。(約9㎞)

Posted by taichiro at 12:56