1999年01月11日

四百字随想その40

1.ベビーカー
(一九九八.一二.八)=自分=
 ベビーカーと言われてもピーンとこないが、乳母車というと思い出がある。自分のことは本当は記憶の外であるが、写真に写っている乳母車が私の乳児時代。しかも二人一緒に乗っている。双子の片割れで一人は三歳でなくなっているため、強烈にこの乳母車が印象に残っている。しっかりしたもので、びくともしない感じである。このため、子供が産まれたとき、手に入れた乳母車も堅牢であった。三人の子供が使い、その上いろんな荷物運びにも役だった。車輪のゴムがすり減って布地部分がぼろぼろになってほとんど骨だけになっても子供達の遊びものとして活躍した。だがこの乳母車、電車やバスには乗ったことはない。子供達を交通機関に乗せる場合、歩けない間はおんぶ、歩けるようになって歩かないときはだっこ。人混みの中をベビーカーに乗せて歩くような危険に、妻は子供達をさらせなかったし、またその迷惑を人に押しつける勇気がなかった。  

2.カタカナ語
(一九九九.一.一八)=文化=
日本語の表記の素晴らしいところはいろんな方法があることだと信じている。漢字があり、「かな」があり、アルファベットも使える。ことに「かな」に「ひらがな」と「カタカナ」があるところが特徴である。表意文字と表音文字を持ち、表音文字を三つ持っていて、その使い分けによって表現が豊かになる。カタカナ語といわれるとき、たぶんに外来語をそのままカタカナに変換したものが多いし、まだ外来語として定着していない外国語の表記にも使われている。問題は意味も分からないままカタカナ語で書き、それが教養の表現と信じている輩がいることである。ちょうど漢語をそのまま使って教養の表れとしたのと似ている。ただ、そんな言葉でも残るものは残り、駄目なものは駄目である。もう「アイデア」などは日本語と言ってもいいし、「エレガント」も優雅とは少し違うような気がする。ただし「エクセレント」になるとまだ定着したとは言えない。

3.競争社会
(一九九九.二.一)=社会=
 今の社会、何事にも競争があって、競争があるからこうして進歩があったといわれている。本当にそうだろうか。私自身、確かにいろんな競争をしてきた。そして勝ったり、負けたり、いろんなことがあった。だがそれが一体何であったか。今、倒産があったり、失業があったり、その実体は競争に負けたからだとなるのだろうか。大学受験というのも競争かも知れない。その競争に勝っていい大学に入っていい会社に入って功なり名を遂げて社長になって、会社を破産させて責任を逃れて、それが競争に勝ったと言えるのだろうか。そうではない気がしてきた。会社を支えてきたのはいわゆる敗者といわれる下積みの人。社会を支えているのも下請けをしたり、一見誰にでもできる仕事を黙々として実行している人々のおかげのような気がする。競争社会といわれている実体をもう少しはっきりと見極め、いかに無意味なことに汲々としているかを知ってほしい。  
(平成一一.二.一東京新聞夕刊掲載)

4.お 年 玉
(一九九九.一.一一)=社会=
 子供達が小さい頃、正月に親戚まわりをするのを大変喜んだ。ご馳走にあずかることも大きな要因だが、何と言ってもお年玉をもらえることが一番だったようだ。
 そういう子供達がいつの間にか大人になり、親になり、お年玉は孫の時代になった。一つ、二つの頃はよく意味が分かっていないが、小学生ぐらいになると、やはり目の色が変わってくる。
 ただ、最近、お正月に年をとらなくなったので、どうも言葉の意味が浅薄になったような気がしてならない。数え年の考え方、復活してはどうだろう。正月を迎えると、みんなが一歳年が増える。無事、年をとることが出来たことを祝い、子供達にお年玉をあげて祝福し、ひいてはそこまで育て上げた親を誉める儀式。そういう儀式にお正月をしたい。
 もっとも子供達は自分たちの子ども、つまり孫を連れて正月はかつての私と同じように親戚まわりをしている。

Posted by taichiro at 1999年01月11日 09:32