2000年02月23日

四百字随想その8

1.ダイエット (1996.5.8)=文化=
自然界の中で、肥満体と称するものがいるのだろうか。仮にいたとしてもダイエットというものに取り組むだろうか。
そんな無駄で贅沢なことをするのは人間だけである。何故そうなったのであろうか。つまり、必要なものを必要なだけ食べるというごく当たり前のことができないからである。生きて行くためにはエネルギーが必要である。エネルギーのために食べなくてはならない。
だが肥満のために食べる必要はない。美味であるとか、珍味であるとか、そんな理由でほしくもないはずのものを食べる。甘いものというだけで食べる。カロリーがどうのとか、蛋白質がどうとか、脂肪がどうとか、そんなことを考えている動物がいるのだろうか。おそらく考えてはいないはずだ。
私も実は一度も考えたことはない。ご飯に一汁一菜を原則としている。筋肉労働をしていないので、塩分は少なめである。その結果、生まれてからこの方標準体重をはみだしたことはない。

2..公的介護保険 (1996.5.15)=経済=
     (平成8.5.15東京新聞夕刊掲載)
介護という意味がいつのまにか老人問題にすり変わっているような気がしてならない。介護は、身障者の問題でも通常の病人の問題にも繋がる話だが、今議論されたり、制度化しようとしている問題は、老人介護に限定されているようだ。
老人問題であるなら本来高齢化社会に対応するための話で、公的とはどういう意味であろう。消費税が導入された趣旨は確か高齢化社会に対応するための税制であったはずだが、高齢化社会に対応する施策の中には老人介護の問題は大きな要素になっている。
今、保険という名がついている。なんでも保険という名称がついてしまうと生命保険、傷害保険や火災保険などの任意のものと、強制されている国民健康保険、自賠責などとの区別が曖昧になってくるが、それと同じような現象がまた起こることを意味する。強制的なものは租税とすべきではなかろうか。
言葉の曖昧さが問題点を曖昧にさせているような気がしてならない。

3.嫁としゅうとめ (1996.5.22)=社会=
本来の嫁としゅうとめの関係は家の存在に大きく関係している。
ところが現代では家の存在が本質的には希薄になっている。名目的には苗字があり、如何にも家の存在があるようだが、特に都会では親の家族と子供の家族が一緒に暮らすことが少なくなっている。
 そうすると親にとっては息子の家族が一種のお客に近い関係になっており、ましてや息子の妻は嫁と言われる存在でありながら親の家の仕来りや家事の方法など知らなくてもいいし、また親も教えようとしない。
 現在、私にはいわゆる「嫁」と言われる長男の妻と次男の妻、二人がいる。それに私の妻は「しゅうとめ」である。しゅうとめにあたる妻は、長男である私の妻でありながらしゅうとめに仕えたことはない。こういう中では新しい「嫁としゅうとめ」の関係が出来上がる。一見冷淡な関係である。
あなたはあなた、私は私という新しいユニークな関係である。

4.極東有事 (1996.5.29)=政治=
「極東」という言葉、いつごろから使われているのだろうか。
私の記憶では終戦直後の「極東軍事裁判」というものをすぐ想像する。いずれにしても日本が極東に位置していることは間違いないであろう。
ところが今や日本だけが極東というのではなく、中国、東南アジア、オーストラリア、韓国、北朝鮮、ロシアを含み、もしかすると、インド、中近東まで含む広い範囲になってきているのかも知れない。つまり、アメリカ、ヨーロッパを除く範囲だとも言われかねない。
抽象的な言葉で安全保障の問題が議論されているが、私は、純粋に日本の立場から考えるなら、アメリカからの安全保障と考えたほうがいいのではないかと思っている。この保障条約によってアメリカからの脅威が防がれているという意味である。
極東有事の議論の中に日米の紛争が想定されていないが、これこそ最大でしかも最重要な問題である。アメリカから見れば極東の意義は正に日本である。

Posted by taichiro at 2000年02月23日 13:08