2000年02月23日

四百字随想その4

1.新年 私の誓い (1996.1.10)=自分=
60年間、私は何を誓い続けていたのだろうか。
あるときは、学業の向上を、あるときは、出世のようなことを、あるときは、世界の平和を、あるときは、健康を、そんな誓いをいつも抱いて、そして小さな達成感と空しい挫折感を得ていた。
 今、私が誓えること。それはその日その日を大切にすること。そしてその日1日、悔いがないとき、私は安らかに眠ることができる。これは、私の健康法にも通じている。
 悔いと悩み。悔いは、過去のことをくよくよすること、そして、悩みは将来のことをくよくよすること。この二つ、現在にとって何の役にも立たない。2度と取り戻せない過去は早く忘却の彼方に捨て去ること。そして明日1日のことだって予測してもその100分の1も当たらない未来のためにあたら現在を疎かにしたくない。
この易しそうで難しい命題に、今年も挑戦し、私の誓いとしたい。

2.政界再編 (1996.1.17)=政治=
     (平成8.1.17東京新聞夕刊掲載)
 今、国民に見える意味では、新進党と自民党に大きく再編されている。そして、自民党にくっついているのが、社会党とさきがけ。新進党は、かっての公明党と民社党と日本新党と自民党脱党者。
 よく分からないというのが、正直なところ、私の感想になる。最近、党首になるために党内選挙があって如何にも民主的に選ばれているように見えるが、そういうものだろうか。
 私が考える政党は、非常に優れた政治家がいて、その政治家の考え方、行動、思想に共鳴して参集するという図式である。つまり、私の考えについてくる人、この指止まれ方式である。したがって、党首と党員には対立はないという考え方である。
賛同できない党首の元には、集まる必要はない。たった一人でも党首になるという気概である。もちろん、そのためには妥協も必要である。
この原点に立った政界再編が政治を分かり易くさせる。

3.懸案解決の妙手 (1996.1.24)=政治=
もともと簡単に解決の方法があるものは、「懸案」とは言わないのであろう。したがって、すでにある解決方法や過去の分析による妙手と言われるものはあるはずがないという前提でものを考えるべきである。
囲碁や将棋では妙手というものが存在しているように見えるが、これも実は打ってみて成立したときに妙手と言われているだけで、その妙手が生まれるまでに数限りない駄手が生まれて失敗を繰り返した結果ではなかろうか。
ただ、これが政治の問題や生活の問題になると失敗というものは致命的なことになる。こういう場合、妙手と言われるものが実験的に行われることは非常に危険なことである。
一か八かということが言われることが多いが、これは単なる勝負事か、遊び事の場合では許されるが、生活に密着した政治の世界や外交問題でそんな妙手を考えることはたいへん問題があると私は考えている。
地道に一つ一つ解決していくこと以外に妙手は存在しない。

4.政官界の責任感 (1996.1.31)=政治=
(平成 8.1.31東京新聞夕刊掲載)
政界というかたまりはあっても本当に官界という世界はあるのだろうか。
現在、官吏という職業はない。あるのは公務員という国民の奉仕者がいるだけである。奉仕者が何かを牛耳っているという錯覚が官界という言葉に繋がっているのではなかろうか。
責任感という言葉はきれいだ。しかし、責任感の裏返しは場合によっては権威主義になる。責任感に基づいた施策は絶対的なものになりかねない。この施策は最善で最良のものである。これ以上のものは有り得ないという考え方である。
従って批判はすべて間違ったものになる。間違っていなくともそれは狭量な判断によるものであるということになる。
私はこういう責任感は捨ててもらいたい。国民に対して謙虚であってもらいたい。そして忠実な国民の僕に徹することが公務員の責任である。
そういう意味で政治家はイニシャティブを公務員に対して発揮すること。それが本当の意味での政治家の責任感である。

Posted by taichiro at 2000年02月23日 12:13