2000年02月23日

四百字随想その3

1.為替相場と生活 (0995.10.25)=経済=
    (平成7.10.25東京新聞夕刊掲載)
1ドル360円の固定レート時代を知っている私にとって、最高79円になった円高は、本質的には、相当な裕福感でなければならないはずだが、そういうふうに感じていない。
それはバブル時代が象徴する土地と証券に反映された結果だと信じている。国民所得論における日本の土地の価額が、アメリカの国土の4倍にもなっているという常識的には考えられない現実を理屈の上では容認している事実からも言える。
つまり、為替相場というものが、実は円そのものの仕組の中に存在していることになる。例えば、3,000万円の退職金の値打ちが、地方都市では一寸した土地と建物を取得できるが、東京では1DKのマンションですら取得できないかも知れない。
1人当りの国民所得が世界一になったとか何とか言われているが、物価の仕組が為替レートと直接的に反映していない以上、本当の意味で生活感の向上は期待できない。バブルが弾けた今、真剣に考えたい。   
    

2.十二月八日の教訓 (1992.12.6)=自分=
 「12月8日って何の日?」と子供に聞いても「さー、何の日だっけ?」としか返ってこないほど、何となく風化している。もっとも私でさえ、6歳頃の話、54年前の出来事である。私には「大東亜戦争」、歴史的には「太平洋戦争」勃発の日である。
 今年の初め、ハワイに行く機会があった。着いてすぐパールハーバーを訪ねた。日本人が殆ど、それにアメリカ人が交じっている。どういうものか私には直視できない感慨を覚えた。しかしほかの人は無邪気に記念写真を撮ったり、語らいを続けていた。
ところが、歴史というものを紐解くと必ずといっていいほど戦争というものの連続である。しかもたいていの場合は平和を求めて止むに止まれず戦いをしたことになっている。平和は戦いをしないという単純なことなのにそうなっている。
この矛盾を教訓に、不戦の誓いを立てたい。もっとも「矛」も「盾」も戦いの道具である。

3.いじめ防止策 (1995.12.13)=社会=
 「いじめ」の中に大きく分けて二種類がある。精神的なものと肉体的なものである。
 私は、この二つを峻別して対策を講じるべきだと思う。なぜなら、精神的ないじめは本当は個人を高めていくもので、決して悪いものではない。精神的ないじめに対して自分を反省するか、それとも孤高を守っていくか。それは正に個人の選択である。無視されたぐらいで参ってしまうかどうか。口で言われたぐらいでしょげてしまうか。ここにそんなことでは負けてしまわない強靭な神経を養うのが、教育といっても過言ではない。と同時に他人に対する思い遣りの必要性を教えるべきである。
ただし肉体的ないじめは犯罪である。どんなに子供であっても人を傷つけたり、脅迫したりして、人間を奴隷的に扱うことは明らかな犯罪である。
犯罪は告発すべきである。学校とか、まだ未成年であるとかの理由で犯罪を容認すべきではない。

4.年の瀬今昔 (1995.12.27)=季節=
「大掃除」「餅つき」「正月の飾り付け」「借金の清算」等々……。思いつくような年の瀬の行事が都会生活の雑踏の中でだんだん薄れてきているような気がする。
戦後の記憶から考えてもジングルベルの狂騒、大売り出しに釣られての人込みなど、そういうものにも何となく浮かれなくなってきている。つまり、年の瀬と新春のけじめがつかなくなっているのだろうか。
わたしはこういうふうになってきた原因の大きな一つとして、年齢を「満」で数え出したことにあると考えている。昔は、正月には一つ年をとった。年の瀬にやり残すことは大変なことであった。次の年齢まで持ち越すことになるのだ。それが全員いっせいに年をとるのだから目立つことこのうえもない。
今は誕生日を知っている人にだけわかることだ。 変な言い方かも知れないが、これが「けじめ」をつけない風潮を煽り、年の瀬の行事が廃れてきた要素だと思う。

Posted by taichiro at 2000年02月23日 12:04