2000年02月23日

四百字随想その2

1.政治家と官僚 (1995.11.8)=政治=   
官僚という言葉というか響の中に、どういうものか、専制、秘密、煩瑣(ハンサ)、形式、画一(広辞苑による)というイメージがあるようだ。
ところが現在の官僚は、本来国民全体の奉仕者であるべき公務員しか存在しないはずである。にもかかわらず、イメージが悪いのはなぜだろうか。それは、政治家が選挙で選ばれ、それぞれの主義主張によって、当選し、また落選することがあっても、行政を司る公務員は、身分が保障され、行政を牛耳っているからである。
アメリカでは、政権が入れ代わる場合、相当数の行政の長が入れ代わっている。日本でも閣議了承ポストと言われる官僚ポストは入れ代えることができるようになっているはずだが、ほとんど入れ代わっていないのが現状である。
イニシアティブを本当に政治家が発揮すれば意味が相当変わってくる。そうなると選挙民はおちおち棄権などはできなくなってしまい、緊張感に満ちた行政になるが、混乱は避けられない。

2.挨  拶 (1995.11.15)=文化=
「過去形は現在の否定である」という話を、聞いたことがあるが、最近の挨拶の中で、というよりテレビのアナウンサーや司会者の言葉の中で、過去形の挨拶が多く、私には耳障りに聞こえて仕方がない。
「ありがとうございました」「おめでとうございました」。まさか「お早ようございました」とか「こんにちはでした」とは言っていないようだが、どうも気になる。
 今はありがたくはないけれど、その時はありがたかった、と言うつもりなのだろうか。また、現在は何にもおめでたいことはないけれど、あのときはおめでたかった、とでも言いたいのであろうか。
挨拶は、通常、定型的なものである。しかし、その定型的なものの中に、暖かさとか、思い遣りとか、感謝とか、そういう言外の言葉を含んでいるはずだ。
過去形の挨拶の中にそういうものが感じられない私の感性は、どこかおかしいのであろうか。

3.年 賀 状 (1995.11.22)=季節= 
 ここ、二、三年、年賀状を出す数は、だんだん増えて1,200枚ぐらいだろうか。私は、年賀状礼賛者である。よく虚礼廃止論者が槍玉に上げる第一に年賀状を取り上げるが、年賀状を虚礼だと思ったことはない。虚礼だと思う人は出さなければよいのである。
 平凡で何も書いていないものであっても、そこから見えてくるその人に対する思いは、格別のものがある。第一、その方が亡くなられた場合には、絶対に賀状は来ない。
 一期一会というが、賀状がその一会を解いてくれる。私の遣り取りの中には小学生時代の友人もいる。しかもその友人とは五十年間会ってはいない。それでも続く賀状の遣り取りで、私は無二の親友と思っている。
私自身は、自分の情報をできる限りちりばめた年賀状を作っている。そのことが自分をあらゆる意味で制御してくれることになる。私にとって年賀状は年中行事の中で最大のものであり、楽しみである。

4.当世、国語談義 (1995.11.29)=文化=
 「じゅうふく」「そうさつ」「そうきゅうに」など、思いつくままに上げても読み方がおかしいものが、相当にある。
しかも人の上に立つような教養のありそうな人たちが、平気で昔流でいうなら「××読み」を堂々とされると、こちらがおかしくなってくる。
 「重複」「相殺」「早急に」は、それぞれ「ちょうふく」「そうさい」そして「さっきゅうに」という。「貴重品」を「きじゅうひん」「丁重」を「ていじゅう」、「早速」を「そうそく」とは読んでいないようだから、漢字どおり読めばいいという理屈はない。
 「重」という字には、重いという意味と重ねるという意味があり、原則的には重ねる意は「ちょう」と読んだというようなことを、どうも国語の時間には説明しないようだ。せめて新聞にルビがあれば、ずいぶん違う。
もっとも、「しょうこうする」と言っても「消耗する」の本来の読みだとはほとんどの人が知らないのが現状だ。

Posted by taichiro at 2000年02月23日 11:57