1997年08月20日

四百字随想その23

1.犯罪の低年齢化
(一九九七.七.三〇)=社会=
 教育の高年齢化によっていつのまにか低年齢を幼児化しているような気がしてならない。人間を生物的に見れば十歳を過ぎれば本来一人前である。私は終戦の年、正確には九歳であった。満州の荒野に一人立たされた。しかし、生きて行くために誰にも負けないぞ、という気概を持ったものである。今でも後進国と言われる国々では十歳を超えれば立派な労働力になっている。場合によっては二十歳はリーダーである。現実においてもパソコンの世界では十八歳はピークと言われている。女子テニスで世界を制したのは十六歳である。ゴルフの世界でも十代である。それを嘆かわしい現実だと言いたいのであろうか。犯罪の世界だけ、勝手に幼児化しているような気がしてならない。もっともっと若い人に十代に活躍の場を与えなければならない。そういう行動力が犯罪という馬鹿げた行為よりも重要で意味のある場が大人よりもあることを知るのではなかろうか。

2.自 分 史
(一九九七.八.六)=自分=
 人それぞれが生きている以上、自分の生きてきた過程がある。その上、自分の父があり、母があり、その上があり、祖先がいる。ルーツをたどると限りなく過去に遡ることができるはずである。このルーツを遡ってみたことがあるが、お寺の過去張から元禄地代まで到達、これ以上無理かと思っていたが、ある郷土史の研究家の成果から、なお三百年ほど遡ることができ、戦国時代まで続いた。私自身のことも生まれてから二十歳までのことについて自分なりに一度書いたことがある。たった二十年のことであったが、その間に学校が十三回、住所が十七回変わっている私の人生は結構波乱に富んでおり、ちょっとした物語になっている。まだその後に四十年の歳月がある。戦後の経済成長期、まさにその真っ直中でやみくもに戦ってきたような気がする。こうして何かを書いているとき、それ自体がいつのまにか自分史の一環を記していることになるが、結構楽しいものだ。

3.五十二年目の反省
(一九九七.八.一三)=社会=
 終戦の日というか、敗戦の日が毎年やってくる。それがいつのまにか半世紀を超えている。「反省」、何かのコマーシャルにあったが、態度だけなら猿でもできる。今、一体誰が何を反省すればいいのだろう。素朴な言い方をすれば敗戦のその瞬間から反省の塊りである。もし、反省と言うなら、戦勝国にあるのではなかろうか。敗戦国が戦いをしない誓い、不戦の誓いをすることはやぶさかでもなく、別に不思議なことでもないし、本当のことを言うと一番簡単なことである。戦争をするとき、負けることを想定して行なうとするならば自殺行為である。したがって、戦勝国が不戦の誓いをすべきである。勝つことで全て賛美され、負けることで反省するとすれば、反省は負けたことに対して行なわれ、勝つことに腐心することになる。反省を求めるならば、本来は勝ったそのことである。そういう意味で反省という言葉は恐い。スポーツの世界を考えるとよく分かる。

4.若者と伝統
(一九九七.八.二〇)=文化=
 江東区には伝統と言われるものが多い。例えば、角乗り。伝馬船。これらはかつて生活に密着していたものだ。ところが今では趣味の世界だ。趣味の世界での伝統というのは一種の懐古である。若者が本当の意味で伝統を引き継ぐもの、それは生活に密着して初めて継承と言える。あらゆる意味で革新が行なわれ、新しいものを追いかけている今、伝統は若者に魅力がなくなっている。繰り返し繰り返し続いていくもの、そういうものが大事にされる時代がないかぎり、伝統は生活の中で生きてはいけない。単なる形式、単なる趣味の中でしか生きることができない。ただ最近の若者を見るとき、世の中で言われるほどいい加減でなく、大変勤勉である。責任感も強い。それに信義を守っている。かえってリーダーと見なされている政治家や財界人の中に無責任と自分本位がまかりとおっている。
そういう意味で若者が日本の伝統を精神的には継承していると信じている。

Posted by taichiro at 1997年08月20日 15:40