1997年09月17日

四百字随想その24

1.総論と各論と
(一九九七.八.二七)=政治=
 一般的に総論賛成、各論反対という言葉で問題になることが多い。もともと総論では大義名分とか、趣旨とか目的とか、抽象的な建前論が多いのだが、各論に入ると具体的な問題点及び方法論など、論点が多く、反対しやすいこともあるため、内容が骨抜きになってくる嫌いがある。現在問題になっている行政改革など、その典型的な事例であろう。公平概念や正義の問題、経済の問題、教育の在り方、そんなものでさえ、総論的な発想の中ではそんなに問題は起こらないが、これがひとたび、具体的な各論に移ってくるとまさに百家争鳴である。本音の部分が出てくる。私は総論が余りにもきれいごとになっているのが問題だと思っている。痛みや犠牲の部分をもっと強調すべきである。総論部分で本気になって議論をつくし、各論はすんなりと治まるような体制ができると、庶民に分かりやすくなってくる。だが、それでは妙味のない連中がいるのかも知れない。

2.今、逆転の発想を
(一九九七.九.三)=社会=
 夏の甲子園、もう八十年あまり野球大会は続いている。毎年のことだが優勝校の校歌、何回聞くことだろう。負けたチームは涙の土集め。なぜ勝ったチームの校歌ばかり聞かなくてはならないのだろう。私は、負けたチームの校歌を聞きたい。そうすると出場校全校の校歌が聞ける。最後に栄えある優勝校の校歌を聞けばいい。そのためには出場校全校の校旗を掲げておく。負けたとき、校歌を歌って静かに校旗を下ろす。だんだん校旗が少なくなっていく。その時、大観衆は敗戦校の敢闘を絶大な拍手でたたえるであろう。えいえいとして努力を積み重ね、その地方の代表校になったのである。胸を張って甲子園を飾った校旗を持って帰ってもらいたい。そうすることによってみじめったらしい甲子園の土を掻き集める必要もなさそうである。こんなちょっとしたことでも逆転の発想で行事の効果が変わってくる。いろんなものに今、逆転の発想は必要になっている。

3.景気の体感度
(一九九七.九.一〇)=経済=
 今、私はお金をなるべく使わないことを考えている。いろんなものがいろんな形で存在しているが、それらを欲しい欲しいと考えていると飢餓感がある。ところが今まであるものを、もっと確実に利用し尽くしたらどうなるだろうと考えると意外にものは豊富にある。それに利用しなかったもの、ゴミに捨てていたもの、そんなものが多い。新聞一つ、あれも読みたい、これも読みたいと思っていたが、一つの新聞を確実に読み取ること、そこでどうしても納得できない場合、他の新聞は買うのではなく、図書館で見てみる。そうすると遡ってでも見ることができる。そのほうが豊富な情報量になってくる。そういう新しい価値観をお金を使わないで得ている。これは、景気にとってマイナスに働くかも知れないが、私が感じる富裕感はかえって充実してきたように思える。物を大事にする思想を不景気といわれるときに感じ、充実感を持つという不思議な体感をしている。

4.親子の絆と躾
(一九九七.九.一七)=文化=
 私は生きる意味を永続的に考えている。そうしないと鮭が生まれ故郷に戻って卵を産みつけ、そのままお腹をひっくりかえす意味が解釈できない。秋の虫が美しい音色を上げてあっという間にいなくなることを解釈できない。人間だって同じことだ。そういう意味では今生きている人間は全て四億歳ぐらいになっている。哺乳類であり、しかも長い年月の間に人間の幼児期は長くなり、親そのものも自分の子供を認識できるようになり、育てることができるようになった。「絆」はこの自分自身を見つめることができる関係であり、「躾」は生きるための英知を親である自分が子供である自分に伝える手段である。自分自身を大事にすること、生きる自分に少なくとも自分が生きた四億年以上これからも生きていけるように願うこと。これが「躾」の本質である。ライオンを見てほしい。烏を見てほしい。燕を見てほしい。そういう中に「躾」のお手本は山ほどある。

Posted by taichiro at 1997年09月17日 15:43