1997年12月10日

四百字随想その27

1.今を支える格言
(一九九七.一一.一九)=自分=
 「自らの立つところを掘れ。そこに自ずから泉が湧く」。これは私が初めて職に有りついたとき、ある友人からもらった言葉である。ニーチェの言葉と聞いている。私はこの言葉を「一所懸命」と解した。「一所懸命」はもともと封建時代の言葉で主君から与った一ヶ所の領地を大切にして命を懸けて守るという意味のようであるが、今の仕事というか現実に取り組んでいることに命がけでやることだと思っている。普通は「一生懸命」ということが多いが、一生、命を懸けることは私にはできないので、「一所懸命」にこだわっている。平凡な言葉であるが、私を支えているのはこの「一所懸命」である。最近はこの意味が「一日懸命」に変わり始めている。今日一日を懸命に生きたと自分で納得できたとき、明日が仮になくとも安心して眠りにつくことができる。この気持が今では私の健康法である。悔やまないこと、悩まないこと、まさに一日懸命の極意である。

2.今、不用なもの
(一九九七.一一.二六)=経済=
 先日、ゴミ処理場を見学してきた。ゴミとは捨てるもの、不用のものの集まりであるはずだが、その中にたくさんの有用なものが含まれ、その有用なものを活用することによってゴミが資源に変わる。ところが資源にするためにはコストがかかる。コストが合わないとゴミのままである。しかもそういう使えるものがゴミになるとたいていの場合、公害になる。東京湾に埋め立てられているゴミ処理もあと十二、三年で飽和状態になるそうだ。よく考えると不思議である。有用なものがゴミになるということ、つまり有用と信じていたものが本当は不用品である。はじめから不用なものを持たないように、持っているものは灰になるまで使い切る。使い切れないものは、全て不用なものと考えるとずいぶん違った消費生活になる。ところでそういう経済生活、それは今までのような経済成長は期待できない生活となる。つまり、今、不用なもの、それは経済成長である。

3.戦争風化の中で
(一九九七.一二.三)=社会=
 私の戦争体験は戦後であった。終戦の日、私は九歳、当時の満州にいた。その日から内戦が始まった。理屈は何も通らない。目の前にあるものは殺戮の世界であった。いったい何のためか、そんなことを考えている暇もない。子供たちはただ逃げまどうばかりであった。生死はただ時の運のようなものであった。そういう戦争、全く無意味だという感覚が身について離れない。人間が憎しみや正義や真実を振り回すとき、それはほとんど正反対の不正義か虚偽のためのものであることを本能的に知ってしまった。ただ目の前の権力に迎合する以外に方法はない。残念ながら戦争はそんなものだ。そういう戦争が風化している日本。私はそういう日本を愛している。戦争放棄が他動的であろうがそうでなかろうが、私は間違っていないと信じている。言論を信じたい。英知を信じたい。文化を信じたい。戦争のような無駄な破壊は止めようではないか。

4.責任追及の時代
(一九九七.一二.一〇)=社会=
 責任は追及するものだろうか。元々責任は感じるもの、他動的なものではなく自動的なものである。責任がある。責任がない。同じことに対して責任をとるということは名誉なことであったはずだ。責任もとれないような職責にいることが心あるものにとっては苦痛なことであった。「あなたが責任をとることはない。その責任なら私が取るから」。こんなことを言われると「俺を何だと思っているのだ」と怒るほど責任はエリートの象徴であったはずだ。ところがいつの間にか責任は人から追及されてにっちもさっちも行かなくなって渋々認めるか、それとも犯罪となってはじめてべんべんと断りを言う。責任がないということが潔白の証とさえなっている。とにかく責任保証保険が存在するぐらいであるから責任とは犯罪の象徴になってきており、責任があると認めることは恐ろしいことらしい。責任のない代表者が存在する不思議な時代になってきたようだ。

Posted by taichiro at 15:50