1997年11月12日

四百字随想その26

1.私 は メ モ 魔
(一九九七.一〇.二二)=自分=
 私はかつて一切メモを取らない主義であった。手帳ですらたいてい空白が多く一年間まともにつけたことはない。電話でも住所でも人の名前でも日程でも何でも記憶の中に置いておくことができた。ところがだんだんそうはいかなくなった。家内が反対に何でもかんでもメモをしている。そのメモに頼ることが多くなってきた。メモは単純な紙切れではなく冊子に時系列的に書いてあり、電話のそばに置いてある。そのメモから必要な項目をカレンダーに家内が引き写している。書込がびっしり詰まっているカレンダーがかれこれ三十年分ぐらいある。子供の成長から生活の変化、出来事、人の出入り、そういうものが全部分かる。つまりメモ魔の家内から私は恩恵を受けて頭の中がメモの保管場所と嘯いていたのであった。新しいことを素直に受け入れるために忘却の必要性があり、私はメモを外部記憶装置として遅ればせながら効用を認め、メモ魔になり始めた。
(平成九.一〇.二二東京新聞夕刊掲載)

2.景気回復の秘策
(一九九七.一〇.二九)=経済=
 今、景気が悪いといわれている。そこでいろんな対策が講じられている。公定歩合は最低である。公共投資も行われている。特別減税も昨年、一昨年と行われた。所得税の減税も行われた。ところが変わらない。一度引き締められた財布が開かないのだ。地殻変動が起こっていると見たい。垂れ流し的な消費の増大に対する反省である。消費の拡大が何を招くのか、本能的に気がつきはじめた証拠である。環境の破壊、人心の荒廃、哲学の無視、そういうものが貨幣経済の弊害として現れてきたことに対する恐怖である。使えるものを最後まで使う。食べるものに対する感謝の気持、土地が本来所有権になじまない性格を持っていること、自然に対する人間の思い上がり、そういうことに無意識のうちに気がつきはじめた証拠である。一度人間の初心に戻って文化の本質に戻ることが私の考える景気回復策である。地球上であらゆる生物が共生できる本物の景気回復を図る絶好機である。
(平成九.一〇.二九東京新聞夕刊掲載)

3.愛用の文具
(一九九七.一一.五)=自分=
 私がこの文具に出会ったというか、自分のものにしたのは昭和五五年だったので比較的に新しい。だが当時一揃えで百万円を超えたので結構高価なものであった。ある職場の提案でこれを機械だとかシステムだとかオーバーなものとして考えるよりも文房具だと考えるべきで、鉛筆替わりになる時代がくるはずだと書いて入選した覚えがある。いまでは住所録管理、文書、帳簿記録、計算、電話通信、ファックス機能まで、いろんなことをこの文具はやってくれる。とくに気に入っていることは時間つぶしに最適だということである。将棋、囲碁、麻雀、果てはゴルフでもトランプでも相手がいなくても相手をしてくれることである。最近ではこの文具を通じて見知らぬ日本国中の人、いや全世界の人ともお話できるようになり、私自身、ささやかなホームページを持っている。この愛用の文具、「パソコン」である。いま、五代目であるが、命は初代から続いている。

4.投票二時間延長
(一九九七.一一.一二)=政治=
 投票率の低下を制度のせいにしたり、政治不信の表現だという考えがあるが、私は間違っていると思う。強いて言えば無関心といえるかもしれないが、誰が当選したって大して変わりがないじゃないかということは現状を容認していることである。万一、危機感があるならたとえ一時間しか投票する時間がなくても必死になって何をさておき投票場へ行くはずである。したがって時間を延長する意味はほとんどない。ただ、そろそろ投票制度そのものをもう少し考える時期に来ていることは、確かだ。投票用紙に人の名前をいちいち書いて無効とか有効とかの争いが、いつもあるようだが、名前を印刷羅列しておき○をつけるだけにするぐらいのことはしてもいいのではないか。またメールやファックスが相当に普及してきているようだが、世論調査には利用されている電話を活用した投票とか、いろんな工夫をして省力化、効率化を図る必要は大いにあるようだ。
(平成九.一一.一二東京新聞夕刊掲載)

Posted by taichiro at 15:47