1997年10月15日

四百字随想その25

1.味 覚 の 秋
(一九九七.九.二四)=季節=
 味覚の秋、それは本来、安くて上手くて新鮮な収穫物を味わえる時である。ところがこれを経済的に考えると、種をまく人、実を採りいれる人、食べる人、という違いを感じさせるのが秋である。すべて同じ場合にはあまり影響はないが、実は出来るものは同じであってもそれぞれ人が違う場合がある。その場合、食べる人の評価が大事である。味の分からない人が増えて味覚音痴が多い。つまり旬の区別がつかなくなっている。果物でも野菜でもいつでもスーパーに売っていて出来る時期が不明になってきている。言葉として味覚の秋があるが、今やその区別が判然としなくなっている。そうなると種をまく人への思いやり、実を採りいれる人への感謝などがどこかに消えてしまった。というより判断がつかなくなっている。美味しいもの、不味いもの、季節外れのもの、そんな区別が出来ることと生産者への感謝の気持が正確に優しく出来る社会への郷愁を私は持っている。

2.私の一冊
(一九九七.一〇.一)=自分=
どういうものか私はこれという一冊がくるくる変わる。初めの頃、「エントロピーの法則」にこったことがあった。エネルギー有限の法則に惹かれ、使い捨ての高度経済成長に対する歯止めの論理に必要なものと考えた。そのうち、聖徳太子の「十七条の憲法」が、現在にも通用する政治理論ということを知り、盛んに愛読した覚えがある。ところがある日、「論語」を読んで孔子が非常に人間的であることを知って、一章一章を独自の見解で読解してみたことがある。この読解を通じて儒学に興味を持ち、佐藤一斎の「言志四録」の存在を知ってしばらく熟読した。最近「神々の指紋」という本を知り、読みふけった結果、人間が常に進歩し、昨日より今日、今日より明日がよくなるという概念がどこかで錯覚していることを知った。現在のベストセラー「七つの習慣」もつらつら読んでみると儒学と殆ど変わっていない。残念ながら一冊に私は限定することが出来ない。

3.世論の重さ
(一九九七.一〇.八)=社会=
 世論に本当に軽重があるのだろうか。たった一人の考えでも一つの同じ行動でも支持されるときは支持されるし、そうでないときもあり、非常に軽薄に感じられる。その上、自分の主張が旗幟鮮明な場合とそうでない場合で百八十度異なったりする。ごみ処理や公害の問題を議論するとよく分かる。総論賛成、各論反対。まさにそのとおりである。ここに説得の意味が出てくる。弁論の意味が出てくる。新しい改革をするにはどうしても分かってもらわなければならない。分かってもらうためには説得が必要である。その説得を省略したり、無視したりすると世論という怪物が反抗する。今、本当の意味で腹の底から世論に向かって説得をしている政治家がいるのだろうか。単に迎合しようとしてはいないだろうか。迎合に走って世論の支持を受けているという感覚で世論の重さを議論していると、本質的な意味でのリーダーは現れないような気がしてならない。
(平成九.一〇.二東京新聞夕刊掲載)

4.投 書
(一九九七.一〇.一五)=自分=
 私は投書が好きである。自分のアイデンティティーの表現の場である。ところが自分が何かを背負っているとき、どういうわけか、本音の部分が書けない。差し障りとか波風とかそういう訳の分からない感情が内心を駆け巡り、挙げ句の果て、たいしたことはない。何も自分が表立つことはない。本当に問題があれば誰かが言うだろう。まあ、いいか。ということになってしまう。自分が書いたことは、もしかすると誰も問題にもしないし気にもしていないのかもしれない。しかし、自分だけは少なくとも分かっている。この緊張感が好きなのである。本当は課題のない問題に取り組むべきであろうが、この発言スペシャルのように与えられた課題に基づいて自分の考えを確かめること、これは大変ありがたい企画である。意識を一つの問題に集中させて、自分は何を考えているか、自分に向かって引きずり出す作業をさせて頂いている。しばらくこの作業を楽しみたい。

Posted by taichiro at 15:45