2000年06月12日

四百字随想その56 

1.傘
(二〇〇〇.五.二二)=自分=
 今、私が愛用している傘はもう十年を越える。作りが頑丈で名前が入っている。ところが、ここについている名前、私の名前ではない。従兄の名前だ。つまり形見分けにいただいた傘だ。今まで安物の傘ばかり使っていて大抵はビニール傘で済ましていたため、傘立にはいやというほど安物の傘が立っている。置き忘れてしまった傘も数知れず、その代わり借りてきて返さなかった傘もあるようで、自分の傘か人の傘か区別がつかない状態だった。それがこの傘を愛用するようになってずーっとなくさないで続いている。もちろん置き忘れたこともあるが、必ず連絡して取り返してきた。ものを大事にする姿勢がこの形見分けの傘でできるようになった。使い捨てのような気持でものを粗末にしてきたことが、この傘一本でずいぶん違ってきた。最近では靴を大事にするようになった。型崩れしないように履き続け、使い尽くしてみたい。そこに自分のブランドを見つけた気分だ。

2.私の投資
(二〇〇〇.五.二九)=自分=
 もの心がついてもう半世紀を過ぎているが、投資したものは何だろう。若干の株式、若干の預金を持っているが、投資したというにはおこがましい。強いて投資したものといえば子供といえるかもしれない。しかし、その投資も金銭ではない。自分の思いのようなもの。自分ができなかったことを託したといえようか。長男はコンピュータ。次男には情報。そして長女には演劇。これからの人間社会で必要なもの。道具ではなんと言ってもコンピュータであり、ソフトではなかろうか。そして情報の伝達。つまり通信手段の確立である。この二つは常にスピードを競い、大量処理というゆとりのなさを生み出していくため、ゆとりを持つという情緒的な心の産業が必要になってくる。これが演劇に象徴されるエンターテイメントである。これには演出が絶対に必要になってくる。この三つを子供たちは職業としてくれている。私が投資しているもの。そんなに選択は間違っていない。
 
3.世  襲
(二〇〇〇.六.五)=文化=
世襲という言葉を聞くと何となく古臭くて封建的な感じがしたり、権利の上に眠っているように思うことが多いが、本来は営々と続く家業のようなものがあってもいいはずだ。例えば政治家。政治という世界は本来、人のため国のため社会のために尽くす職業であって自分のことを考えていてはできない仕事である。政治家の家に生まれて政治の世界を知っている子供が政治を目指すことは間違いではない。佃煮屋の子供が佃煮屋を継いだり、理髪店の子供が理髪屋になることと同じである。ところが戦後どういうわけか猫も杓子も家業を継ぐことが悪でサラリーマンになることが最善のような雰囲気があり、親が営々と続けていたことを放棄して新しいことをする風潮がある。五百年、千年と続く家業。そういうものを尊重する世界を作り出すこと。それが世襲であり、そこに命の引継ぎと文化の引継ぎを感じ取ること。これができれば人類に光明が見える気がする。
(平成一二.六.五東京新聞夕刊掲載)

4.恥と罪
(二〇〇〇.六.一二)=文化=
恥はしてはいけないことのようにいわれているが、実は生きている人間は本来恥ずかしいことばかりしているような気がする。裸になること、食事をとること、排泄すること、そういうことはみんな人に見せてはいけないことで、恥ずかしいことなのである。お金を稼ぐことだって恥ずかしいことなのだ。つまり、人間にとって生きるすべての行為は本来恥ずかしいことで、人に見せてはいけない気がする。ところがこのタブーがだんだん取り払われ出して、人間はおかしくなってきた。まず料理番組。料理という行為はどんな場合でも生きているものを殺す行為である。これは人に見せるものでない。にもかかわらず切る、削る、煮る、焼く、炒めるなどの野蛮な行為をテレビでさえ見せ始めて、たがが緩んでしまった。裸もそうだ。恥は恥ずかしい事をしないことではなく、恥ずかしいことを人に見せないことである。恥を知らなくなったことが人間の最大の罪である。

Posted by taichiro at 2000年06月12日 09:49