2000年05月15日

四百字随想その55

1.たしなみ
(二〇〇〇.四.二四)=文化=
 「たしなむ」と動詞になる場合と「たしなみ」と名詞になる場合があるが、これほど語感の違う言葉も珍しい。普通、動詞の場合は好んでいるとか、趣味としているとかという意味をオブラートして言うような感じであるが、名詞になるとどういうものか、慎み深い心がけのような感じになる。もちろん、名詞であっても「好み」や「趣味」をいうことは事実であるが、少し違ってくる。「お酒をたしなむ」とはいうが、「私のたしなみはお酒だ」とは言いにくい。つまり、「たしなみ」には全人的な人格全般をさしているような気がしてしかも好ましいものだ。服装も思想も外見も内面もすべてを判断して「たしなみ」というのではなかろうか。時の首相とか、自分の恩師とか、そういう関係者がたしなみのある人と思えるとき、自分が幸せに思える。ところがそうでない時、やはり悲しい。周りの人がすべて「たしなみ」を持ち、自分にもそういう「たしなみ」があるような環境を望んでいる。
(平成一二.四.二四東京新聞夕刊掲載)

2.メーデー
(二〇〇〇.五.一)=経済=
 労働者の祭典、メーデーといわれているが、日本の場合、本当に労働者はいるのだろうか。労働に従事しているという意味では労働者は存在している。しかし搾取されている労働者という意味になると少し違うような気がする。搾取されるためには搾取するものがいなくてはならない。労使協議などを見ていると、使用者側とされているものも決して搾取者ではなく、同じ使用人のような気がしてならない。現に労働者の給料が上がると使用者側も上がる。利益の配当と称するものはほとんど変化はなく、企業そのものが大きくなっているだけだ。もしかすると、企業そのものが搾取者だといいたいのかもしれないが、企業が小さければもともと経営者も労働者もいっしょくたになって働いているのが現状だ。というより労働者そのものが経営者になっているようなものだ。こういうところがもう一つメーデーが盛り上がらず定着しない原因で、そのことは必ずしも不幸なことではない。
 
3.ごみを考える
(二〇〇〇.五.八)=文化=
 ごみは美しい。それに理性に満ちている。我が家はごみの中で暮らしている。まず新聞。紙くずにしかならないが情報が詰まっている。切抜きだけて書棚一つを独占している。それにビデオとテープ。見る積り、聞く積りで貯めているが、十年前のもの、二十年前のもの、見たこと、聞いたことがないのにいつ聞くのだろうか。本がある。服がある。カバンがある。パソコンがある。理性的で美しいが、やはりごみだ。次から次へ新しいものが出る。そういうごみが百年も千年も、いや一万年も残っているとやれ遺跡だ、やれ文化だと姦しいことを言い、折角眠ってしまったごみを掘り出してごみを飾る。捨てがらの貝ですら貝塚として奉るわけだからごみは美しい。死骸ですら一万年も経てば美しく文化的なものになる。化石として残ればなお美しくなる。タイムカプセルとかいうものでごみを残そうとする。こんな美しいものを作り、美しいと感じる人間は奇妙な動物だとつくづく思う。

4.母への手紙
(二〇〇〇.五.一五)=自分=
 お母上、初めてお手紙差し上げます。私も還暦を過ぎ、まもなく名実ともに老人に達します。子供が三人。孫も四人います。永久の別れをした私の歳より長孫は大きくなり十歳になります。もう五十六年前になりますね。私はまだ八歳でした。終戦があり、戦後があり、家出があり、学校があり、就職があり、結婚があり、その都度、どんなにか母上にいろんな相談をしたかったのですが、見果てぬ夢でございました。しかし、いつも私は母上なら何と答えてくれるか、と問いかけ、その答えを想定してその方向に進んだつもりです。母上の答えはいつも明快でした。恥ずかしくないか。自分の考えか。判断基準はこの二つだけでした。人真似を嫌がった母、そして恥を知ること。八歳であった私が母上から引き継いだ資質はこの二つだけでした。でもこの二つ。この五十六年間を曲がりなりにも誤りなく判断に迷うこともなく過ごせた一因です。お母上、ありがとうございます。

Posted by taichiro at 2000年05月15日 09:48