2000年03月13日

四百字随想その53

1.故郷の父母
(二〇〇〇.二.一四)=自分=
父母がいなくなった途端、故郷もなくなった。というより、私には故郷がもともとない。生まれたのは東京だったが、物事の判断がつかない間に外地に行き、そこで終戦。孤児として引揚げ大阪で父に再会。転々と学校を十一も変わっていると故郷らしきものはどこにもない。それでも父が生存している間、大阪は故郷らしき存在であったが、父がいない現在、大阪はもう故郷ではない。よく考えると私の子供たちも故郷を持たない。家庭を持って三十年余り、その間、転居を五回している。典型的な団地住まいで、今でも同じである。こういう中で故郷の父母という関係は生まれてこない。今の地を終焉の地とし、一種の故郷としてみたくて墓も近くに建ててみた。せめて子供たちに故郷の味を作ってみようと思うが、同居している娘以外にはその関係も希薄である。こうなると孫に頼る以外は方法がない。東京のおじいちゃん! そんな存在で故郷の父母を作っておこう。

2.試   験
(二〇〇〇.二.二一)=自分=
 先日、三七年ぶりに試験を受けた。どういうわけか、この年になっても付き添いがいる。
朝から心臓が高なり、何度もトイレに行きたくなる。何度か通った水道橋駅から朝の町を歩く。日曜日なのに人通りが多く、若い人が目立つ。皆が同じ受験生に見え、自分も同化していた。受験場で私の教室を探す。五階だ。机に着いて筆記具をそろえ、周りを観察する。二十代から三十代が多いが、私ぐらいもいる。二人机が五列並び五段づつ、五十人の席に六割くらい座っている。九時過ぎて人の動きが止まり、係の人が巡回して教室のドアが閉まる。簿記の試験が始まった。「冷静に、確実に、きれいに」を心がけてアタック開始。一通り書いて、さーっと見直し、迷った問題を書き直す。「あと十分です」の声に必死で鉛筆を走らせた。「はい、筆記具をおいてください」で、試験終了。ぼぉーっとした頭で階段を降りると、外は小春日、青い空。付き添いはずい分心配したが、見事合格した。
(村田久美子記)

3.産 休
(二〇〇〇.二.二一)=社会=
 子供を産むこと。これは人間の、というより生き物のすべての根源であり、生きている意味の基本ともいえる。しかもその可能性は何億個の中のたったひとつである。選ばれた生命の誕生である。それをごく単純な理由で疎かにする人間の愚かさが悲しい。子供の誕生を素直に喜び歓喜に浸る気持。それが自分の子供だけでなく、周りに居る人、他人のことであってもそうなる現象。それが徹底されれば、「産休」など議論しなくても当たり前のことになる。仕事など子供を産むという行事に比べれば月とすっぽんぐらいの差があるという認識。みんなで助け合うということぐらい当然であるという認識。「命の誕生」に対する価値観を人間なるがゆえに絶対とする考え方が必要である。同時にそうして子供が誕生するという現実に感謝する産む側の謙虚さが必要である。命を育むために必要な時と場所、それを制度的に持つ行為。他の動物でもできることを人間は疎かにしすぎている。

4.地方の反乱
(二〇〇〇.三.一三)=政治=
 東京に住んでいると、地方という言葉が東京以外を指すような錯覚にとらわれるが、実は東京も地方だということが今回の騒動で分かった。ところがそうなると中央とは何なのか。反乱という言葉は何かに対する言葉であろうが、多分、中央ないしは国という概念であろう。これは、都と市区町村の間でも同じような問題がある。区としてはその考えは分かるが都が認めていないとか、そういう発言が出てくる。こういう場合も都の存在が抽象的になる。もともと一人一人の国民があって地域的に市区町村があり、それを取りまとめるものが都道府県であり、そして国が存在する。そのはずのものが、逆に国があって都道府県があって市区町村になり、そして国民になる逆転現象が生まれている。沖縄の問題、高知、そして東京。新しい問題意識は地方から起こるべきであって、その問題を真摯にそして真剣に考えることが中央の役割である。そうならないと中央は砂上の楼閣である。
(平成一二.三.一三東京新聞夕刊掲載)

Posted by taichiro at 2000年03月13日 09:46