1999年12月20日

四百字随想その51

1.木枯らし
(一九九九.一二.七)=季節=
 先日、木枯らし一番が吹いたが、最近の様子は総じて温暖でどうも冬の実感がない。町中をよく歩くようになってから季節感や気温に敏感になっているはずだが、もう一つ厳しさが感じられない。
 一方、経済状態の方は木枯らしが吹きっぱなしといわれているが、どうも実感としてはその雰囲気がない。ものに不足はないし、服装もしっかりしている。
 私が一番感じる木枯らしは人心である。特に人の上に立つといわれている人たちの無責任さである。「知らなかったこと」、「部下がやったこと」、「そういう責任はない」、「今から調べてみる」、「これからそういうことのないよう努力する」等々。言い訳にもならなくてだれにも言えることを堂々と言い、そういう方々が上に立っている現実。
私には鳥肌の立つほど寒々とした光景である。
     

2.公 と 私
(一九九九.一二.一三)=社会=
 公私のけじめ、公私混同などなど、元々公事と私事を区別するために使われることが多い。ところが最近では公事は本音を言わない、私事はプライバシーとか何とか言って隠すことになっている。真実は事故が起こったり、事件が発生しない限り、分からない。事故や事件が発生しても犯罪として確定しない限り真実は見えてこない。一体全体、公事とは何だろう。国のこと? 市町村のこと? 会社のこと? 団体のこと? 仕事のこと? 最近のように警察そのものが事件を起こしたとき、私事で事件を起こすことと職権を利用して起こすこととの区別。そういうことも何だかよく分からない。破廉恥罪的な事を起こすと、やれ教師のくせにとか、警官のくせにとか、政治家のくせにとかというが、会社員のくせにとは余り言わない。いや、大手の会社だとああだこうだと言われる。どうも公私の区別というものは必要なく悪いものは悪い、いいものはいいという評価が本来必要だ。

3.師走の色
(一九九九.一二.二〇)=季節=
 師走の東京は黄金色である。まるで黄金の絨毯の上を歩く王侯の気分だ。ことに青山の絵画館前の大通り。今年の銀杏は素晴らしい。落ち葉を踏みしめてサクサクと鳴る軽やかな足音は、「気分はどう! 滑らないでね」とささやいてくれる。寸金も帯びず、寸金も稼がず、ただ歩いているだけの私に豊満に黄金の雨を浴びせかけてくる。自然の恵み、そういう恵みをこの東京で味わえる。そういえば東京の木は銀杏だ。よく気をつけていると道路という道路に銀杏並木が多い。木場公園を始め大抵の都立公園には銀杏が植栽されている。色づいた銀杏に囲まれた東京の師走。正に黄金色だ。この色がまもなく茶色に変わり土色になり灰色になっていく。だが銀杏が生きている限りやがて新緑のころがやってきてギンナンを育て、そしてまた、黄金色の絨毯を敷いてくれる。こういう自然の輪廻。豊満で美しく鮮やかな東京の師走の色。私はこういう東京を愛している。 

4.私の一九九九年
(一九九九.一二.二〇)=自分=
 一九九九年。私にとっては画期的な一年であった。私自身の一年間の総歩数は三八〇万歩に達した。ウォーキングの例会は、年間で五〇回、参加人員は延べで二五〇〇人に達し、例会の総距離六六六㌔であった。昨年から始めたものであるが、回数だけは同じであったが、歩行距離、参加人員ともに五割増であった。「元気で長生きしてポックリと」を旗印にGNPと称している。副次目的、地球温暖化の防止、医療費負担の軽減にいささかなりとも役立っていると自負している。自家用車のガソリン消費量が五分の一になり、医者には歯医者以外にはとうとうかからなかった。残念ながら会員約八〇名、だれ一人最終目的、ポックリととはならなかった。世紀末といわれる一九九九年。六〇年余の人生の中で初めて大地に足の着いた歩みを着実に行い、実現した思いである。歩くことをこれからの二〇〇〇年代の目標に出来たこと。これが私にとっての一九九九年である。 

Posted by taichiro at 1999年12月20日 09:42