1999年06月07日

四百字随想その44

1.旅先での食事
(一九九九.四.二六)=季節=
 どういうものか、私は珍しいものを食べることに欲がない。欲がないというより今までに食べたことのないものに手をなかなか出さない。旅先では珍しいものを腕によりをかけて出してくれるところがあるが、そういうとき、食べないわけにも行かず、おそるおそる食べてみる。しかし、たいていの場合、受け付けないで、あり合わせのもので済ませてしまう。みそ汁とご飯と卵と豆腐があって、それに少々の漬け物があれば十分だ。肉類、魚類は一口もあればいい。最近、旅先でバイキング方式があるが、私はこれが大好きだ。自分の食べられるものだけ食べればいいからだ。これでもかこれでもかとたくさん、お膳に乗ってくる和風料理や西洋料理のコース、何だか半分近く捨てられるようなことは辞めた方がいいと思うが、それでは豪華に見えないのだろうか。そろそろ見せかけの豪華さは、意味のないことに気が付いてもいいのではなかろうか。 

2.金融機関
(一九九九.五.一三)=経済=
 もう四十年前になるだろうか。就職戦線で金融機関は最高の職場であった。安全確実、保守的で絶対潰れない職場。エリート中のエリートしか入れない職場。社会と経済の中心的役割を持ち、間違いを起こさず、産業発展の基礎を築き、個人資産の最も確実安全な運用先。そんな憧れに似た存在であった。ところが不良債権は隠匿し、金利はなきものに等しく、それでいて責任の所在を明らかにせず、損失は税金で補填してしまう存在になっている。エリートはどこに行ってしまったのだろうか。頭取、副頭取は定期預金金利五%を水準とし報酬を比例させること。つまり〇.五%の金利であるなら報酬は一〇分の一になるということだ。次に、役員は半数にし、残った役員の報酬は半額にすべきである。半額になるのがいやな役員は退職していただく。行員の給料も取りあえず普通の企業並にまで水準を落とすこと。そのぐらいの荒治療をしないと今の腐敗は消えない。
(平成一一.五.一三東京新聞朝刊掲載)

3.結婚と生活
(一九九九.五.二四)=自分=
結婚してから間もなく三十三回忌ならぬ三十三周年を迎える。この間、子供が三人、嫁が二人、孫が四人。たった一人からの生活が何と十一人の家族になった。夫婦の両親は既に亡くなっている。たった一人で生活していても汲々としていたはずだが、結婚して二人になり三人、四人、五人となっても一人の収入で生活してきた。別に普通に比べて激増したわけでもないのに生活を行い、子供達も学業に励むことが出来た。これは不可思議という他はない。収入というものが、単なる経済的な貨幣価値で計れないものが存在している証拠である。家族内で協業によって生み出されるもの。貨幣価値はないが、喜びと幸せの産物として価値を生み出す。外食を止め、被服を作り、洗濯を自分で行い、塾でなく子供に教え、私立でなく国立に進学させる。そういうことで限りなく生活は豊かになっていく。貨幣価値の無意味さを結婚生活によって熟知した三十三年間である。

4.カジュアル・デー
(一九九九.六.七)=社会=
 ほとんど毎日がカジュアル・デーの私がカジュアル・デーの効用を述べるのはおこがましい気がするが、一番の効用は靴である。通常、堅苦しい革靴を履いて足を締め付け痛めているが、カジュアル・シューズというよりひも付きのウォーキング・シューズを履くことで、足下はしっかりし、大股歩きが出来る。その上、鞄はリュック型にして手に何も持たないことにしている。たったこれだけのことで町歩きが楽しくなる。歩くことが楽しくなると行動が活発になる。どこに出かけるのも苦にならず、むしろ出歩くことに積極的といえる。歩くことによる効用は、まずウェストが細くなる。私の場合、一年少しでおよそ一〇センチ近く縮まった。それに風邪も引かなくなった。その上、ほとんど車にも乗らない。これは地球温暖化の防止、医療費負担の軽減化にも役立っていると自負している。仕事は形でなく中身である。大いにカジュアル・デーを謳歌してほしい。
(平成一一.六.七東京新聞夕刊掲載)

Posted by taichiro at 1999年06月07日 09:35