1999年03月29日

四百字随想その42

1.思い出の花
(一九九九.三.一五)=自分=
長男が小二の頃だったと思う。ひまわりを種から植え付けてやっと花が開いたとき、根元から盗まれたことがある。長男は嘆き悲しみ大きな声で泣いた。私も妻も泣きたい気持を押さえつけ、しかし、根元から掘り起こして盗んだ子の気持を息子に訴えた。根元から持っていったということはそのひまわりを育てる気持があるからだ。踏みにじって単に人が育てたものを揶揄するのとは違うことを説明した。たぶん、自分が育てきれずに長男が作ったものを自分の作品にしたのだろうが、それでもひまわりを殺さずに持っていった心根を察して欲しいと息子に訴えた。息子に理解できたかどうか、よく分からないが、それでも一つの教育が出来たと思う。どんな雑草であろうと虫けらであろうと生きているものを無意味に殺傷することと生きるために自分が食べることとの違いを子供に訴えることが出来た。リスの好物、ひまわりの種からひまわりの花を思い出している。

2.国会議員の定数
(一九九九.二.二二)=政治=
国会議員の定数、結論から先に言うと多すぎる。現在の衆議院議員の比例代表議員はカットすべきだ。そして参議院は全員比例代表にして、その特徴を鮮明にすることがいいのではなかろうか。ことに比例代表議員が落選議員でもなれることになっているのは、もっての外という気がする。一人区制度は確かに少数政党が不利というのはよく分かるが、多数政党が失政を犯したとき、雪崩を打って崩れることも確かである。雨後のタケノコのように目まぐるしく政党が出来たりなくなったりする現象、それに比例代表で選ばれた議員が勝手に政党を離脱したりする制度、離脱しても議員の資格を失わないのは非常におかしい。とにかく私の考えでは衆議院二五〇人参議院一〇〇人が妥当な定数だと考える。そうなって始めて議員は選ばれた選良としての意識も高まり、また、選んだ方も真剣に支持し、万一期待に反した場合、ただちに支持を止めることが出来る。

3.無 党 派
(一九九九.三.八)=政治=
 国民とか人民とかという言葉を使うとき、どういうものか、党派的な意識がない。「国民のため」という言葉は政治家の常套句であるが、自民党のためとか共産党のためとかという言葉は使わない。つまり、国民は常に無党派であるという前提があるようだ。その上、評論家と称する人もどういうものか無党派である。自己の立場を鮮明にしない。それでいて自分より正しい政党などこの世に存在しないようなことを言って、慎重に選挙では選ばないと政治が駄目になるようなことを主張しているのが実状だ。こうなってくると主義主張を持っているはずの政治家まで、その主義主張をオブラートして無所属になり無党派に迎合しようとし、何となく政党所属者は選挙には勝てないと自ら判断しているようだ。政治は人物だという考えがあるが、その人物のもとに多数の支持者が集まり、政党が形作られるという本質に立ち返らない限り、無党派全盛時代は終わらない。

4.国歌と国旗
(一九九九.三.二九)=政治=
 日本は少なくとも独立国であることに異論を唱えるものはいないだろう。そういう独立国で国歌、国旗を持たない国はないはずである。「君が代」が国歌で、「日の丸」が国旗であることに異論を唱える人々の気が知れない。「君」という言葉に抵抗を感じているようだが、立派な二人称だと考えてはどうだろう。過去を云々する人がいるが、仮に誤った過去があればすべてを否定する考え方、そこには再生もなければ新生も認めない抹殺しか方法を求めない暴力主義と何ら変わりはない。単純で明快な太陽を表す「日の丸」。そういう国旗がすべての国から認められている日本。私は自分の人格すべてをかけても立派で愛を感じる旗だと信じている。太陽は生きとし生けるものの根元である。そういう象徴を持つことに反対する方は日本を捨てるしか方法はないようである。法律の有無に関わらず、私は、国歌は「君が代」で、国旗は「日の丸」であることを支持する。 

Posted by taichiro at 1999年03月29日 09:34