1998年11月30日

四百字随想その38

1.私の辞書、事典
(一九九八.一〇.一九)=自分=
私は事典、辞書の類が好きだ。本屋で見て面白そうだと思うとつい買ってしまう。それに本箱の中でいつまで置いても飽きないし、邪魔にもならない。普通の本だと一度読むとまず二度と読むことはない。ところが辞書や事典は一度には読まないがいつでも読める。最近、文章を書くときはほとんどパソコンを使っているが、それでも結構、辞書はひいて微妙なニュアンスの違いを確かめている。それに類語辞典もよく使う。使い方を知るためまたは意味を確かめるために最適である。事典の類ではもう結構古くなっているが世界大百科事典を愛用している。すでに四半世紀以上経って新版も出ているが、相変わらず使っている。意外に重宝しているのは子供達が小学生の時に手に入れた原色学習ワイド図鑑である。親である私たちの方がぼろぼろになるほど使っている。いずれにしても我が家では辞書、事典の地位は高くいつでも手に取れる書棚の中央を独占している。
(平成一〇.一〇.一九東京新聞夕刊掲載)

2.今時の男言葉、女言葉
(一九九八.一一.二)=社会=
 おとこ言葉とかおんな言葉とかの区別は他の国の言葉ではほとんどなく、日本語の特徴だと聞いている。もともと日本語でも方言などには余り区別がなく、封建制度の中で男の権威のようなものを出すために人為的に作り出したものとも言えるし、上品なおんな言葉といえるものがその語源をたどると遊女が使い出したものであったりする。つまりおんな言葉というものは差別のための用語法であることが多く、それでいて話し言葉としては有用なもので、おとこ言葉は本来の話し言葉ではなく漢語に基づいた書き言葉であることが多い。いまどきの若い者がおとこ言葉おんな言葉の区別がなく、粗雑な話法をとっていることが多いがそれは語彙が不足していることが原因であって、その言葉に区別がないことを云々するのは封建時代に対する郷愁のようなものである。優雅で優しい言葉は男でも女でも使うべきであって荒々しく粗雑な言葉は男でも使うべきではない。
(平成一〇.一一.二東京新聞夕刊掲載)

3.韓国の日本大衆文化開放
(一九九八.一一.九)=文化=
 日本と韓国、国レベルでいえば一番近い国である。歴史的に見てもお互いに影響しあっているはずである。日本の文化はほとんど韓国というのか、朝鮮半島から輸入され、民族的な意味でも祖先を溯っていけばもしかするとほとんどの日本人はルーツを韓国に求めざるを得ないかも知れない。それほどに関係の深い国でありながら、文化のレベルではお互いが影響されたくないというような意識がある。これは一つには儒教的な考え方に対して日本があまりにも簡単に豹変してしまったことに原因があるようだ。しかし、日本の庶民の根底には未だに儒教的な道義心が存在している。この道義心がある限り、日本の大衆文化は韓国の文化と融合する可能性がある。そういう意味でこの開放政策は成功するはずである。同時に日本も積極的に韓国の大衆文化を理解するため、具体的な韓国の文化を紹介し、大衆に分かってもらう努力が必要だ。マスコミの責任が大きい。

4.大学は変わるか
(一九九八.一一.三〇)=文化=
 子供達を三人教育しただけで大学を云々するのはどうかと思うが、どういう制度にしたところで、そんなに変わらないと思う。それはほとんどの親が大学に入ることだけが関心事で、大学で子供達が何をしているかに興味を持っていないようだ。公務員試験で初級に大卒者が半数を超えたと聞いて、プライドのない大学生が多いということが分かった。というより、そのくらいのレベルが大半だということである。猫も杓子も大学、大学というだけで本質的な研究者としての意欲がほとんどない。平均的なレベルのアップだけでなく、少数精鋭主義が必要である。あたら青春を一般教養だけで満足するような人材、その一般教養すら満足に学ばずに大学卒という名だけにあこがれるような現在のやり方は単なる失業対策として若者を就業させないための制度とも言える。抜本的に変えるつもりなら数を減らすこと、本当のエリートを育てることに徹することである。

Posted by taichiro at 1998年11月30日 09:30