1998年10月05日

四百字随想その37

1.星  空
(一九九八.九.二八)=自分=
 今から何年前であったろうか。ある月蝕の日、草津から中軽井沢に抜ける山間の道で味わった星空、それは満天下にこうこうと輝く星ばかりの空であった。それこそ「星の数ほどある」と形容されることを現実の光景として眺めた。都会に住んでいると、どんなに快晴の日であっても星は回りの明るさに幻惑されて数えるほどしか見えない。たぶん一等星と言われるものか、よくて二等星ぐらいが見えるのが関の山であろう。それが山の端の隅々まで行き渡るように澄み切った空から見える星の数々。その光は何千年、何万年かかって我が地球に届いている。その事実、生きている自分の小ささと宇宙の広大な広がりとの対比に戦きひれ伏したいような衝動に駆られた覚えがある。この光景を家族全員で眺めた。確かその時、娘は小学校にも上がっていなかったが、二五になる今「星空」と聞いて、「お父さん、あれしかないね」というほど鮮明な印象として残っていた。

2.食品関係の包装
(一九九八.一〇.一二)=経済=
 小さなことであるが、砂糖の小袋がある。喫茶店に入って最近ではほとんど砂糖壺は見当たらず、小袋になっている。一定の量になっているため、好みによって残されることが多いが、残ったものはほとんど捨てられてしまう。 紙は結構上等であるが、これも捨てられてしまう。スプーンですくって入れている限りそういうことは起こらない。今では角砂糖さえ消費量が減ったと聞いている。汚い、非衛生的という名目、それに後始末が要らないという僅かなメリットで最近では家庭でも使われている。弁当も今では家庭で作るものではなく、コンビニで売っているものになってきた。そのおかげで弁当箱はその都度捨てる存在になった。資源の無駄遣いを食品の包装はしている。こういうことで成り立っている経済成長が果たして正しいのであろうか。見せかけの経済成長が食品の包装一つにも表れているが、どういうわけか、中元、歳暮では包装を競い合っている。

3.専業主婦論
(一九九八.一〇.二六)=社会=
わが妻は専業主婦である。主婦の仕事ほど弾力的で切りのないものはないとつくづく思う。場合によっては何もしなくてもいい。やり始めると終わりがない。最近、両方とも万歩計をつけているが、家の中にだけ居ると、こちらは千歩足らずだが、妻はだいたい五千歩を超える。炊事、洗濯、掃除などなど、一日ほとんど動き回っている。こちらは机の前にいるかテレビを見ているか、寝転がっているか、そんなところである。昔、何かで聞いたことがあるが、平和産業とは、この主婦の仕事を取り上げてしまうことで成り立つとのことである。冷蔵庫、炊飯器、湯沸かし器、風呂、トイレ、それにお総菜からご飯まで買うことが出来、レトルト食品、洋服から下着までほとんど主婦の仕事を取り上げたものである。そして出来た余暇をテレビだ、レジャーだ、美容だ、ダイエットだなどといって産業が出来る。これを経済成長というようだが、どこか狂ってはいないか。

4.生涯学習
(一九九八.一〇.五)=文化=
 現在、江東区では「自悠大学」という講座があり、半年間、週二回ないし三回バラエティーに富んだ講義が行われている。私も参加しているが、ここでは最低年齢である。九〇歳を超えた方も数人おられ、最新の知識を吸収している。校歌もあり、入学式、卒業式では元気にみんなで歌う。積極的に生涯学習を続けている一例であるが、場合によっては時間つぶしの一つになってはいないか。学習という意味が受け身の形で行われるとき、知識の吸収には役に立つが、智恵の発露に結びつかない。学習という意味では生活の繰り返しの中で、智恵が生まれる。どんな小さなことでも自分で工夫する。その工夫の中で智恵が生まれる。私の考える生涯学習はそんな生活の知恵を繰り返しながら発揮する過程だと信じている。そういう意味では単に歩くことでも意識を集中して工夫を加えると繰り返しているうちに上達してくる。今、私の生涯学習は歩くことに置いている。

Posted by taichiro at 1998年10月05日 09:29