1998年09月21日

四百字随想その36

四百字随想その36
1.思いやりの心
(一九九八.九.一四)=社会=
 私たちは「思いやり」という言葉を使うとき、たいていの場合、強いものが弱いものに対する心の持ち方として使われることが多い。そのため、若い者は年寄りをとか、豊かなものは貧しいものに対してとか、虐めるものは虐められるものをとか、といういい方で使われ、一方的になってくる。つまり、弱いものは強いものに対する思いやりは必要ではなくなってくるような錯覚を覚える。虐め騒動を考えるとその構図がよく分かる。一種の犯罪が発覚した瞬間から万一何らかの形で犯罪者に対する思いやりなど持とうなら、その犯罪者と同一視されてしまうような恐怖心が起こる。私は「思いやりの心」というものは対等の心の持ち方であって、「思いやりの心」を持たない人に対しても何故にそうなったのかを探り、そういうものを持つことの豊かさをその人に知ってもらう努力が本当の「思いやりの心」で、根本は人間に対する愛情の深さだと信じている。

2.子どもの宿題
(一九九八.八.二五)=社会=
 私は子どもを三人育てた。三人の子どもは宿題を気にしなかった。宿題を後に残さないこと。それが物事のけじめをつけることの意味を教えてくれた。それに時間の節約の意味を教えてくれた。早くやり遂げ、時間のやりくりをして好きなことに余裕を持つ工夫が出来るようになった。親にとっても有り難いことであった。子どもたちが何を学び何を研究するのか、そういうことを一緒になって学ぶことが出来た。人が一時間かかることを十分で仕上げる。それとも人が一時間で出来ることを十時間かける。そういうことが自由に出来る宿題は子どもにとっても親にとっても有り難い。問題はそうして一所懸命仕上げた作品をちゃんと評価しない教師がいることだ。間違っていてもそのままにしておく教師、やっていなくても指摘しない教師。指摘しないどころかやらせもしない教師。そういう無責任さが問題である。教育は全ての子どもを百点にすることである。  
(平成一〇.八.二五東京新聞夕刊掲載)

3.マ ン ガ
(一九九八.九.七)=文化=
 マンガは、もともといたずら書きのようなもので、ぱっと見て吹き出すようなものと考えていたが、最近では何でもかんでもマンガになり、物語から伝記、その上経済学のようなもの、法律のようなものまでマンガで書かれるようだ。今では写真でないもので視覚的に訴える出版物と言っていいほどで、あらゆるものが含まれていると言っていい。活字だけが出版物としての伝達手段ではないことはよく分かるが、深みがなくなり、それでいて、より刺激的な表現にエスカレートしていく。私の子供たちもマンガ時代に育ちマンガもよく見たが、大人になってからは見向きもしない。マンガだけで得られる情報があまりにも小さいということが分かってきたからである。今、孫たちがよくマンガを見ている。面白いことだがマンガだと余り質問が出ない。ところが普通の本ではいろんな質問が出てくる。この現象が私はマンガの長所であるとともに欠陥だ信じている。

4.商 店 街
(一九九八.九.二一)=社会=
 どういうものか、団地には商店街が向かない。コンビニかスーパーということになりそうだ。そうすると似合うのはどこだろう。一番似合うのは長屋である。私はかつて佃に住んでいたが、月島商店街、ここではお店とお客が全てを知り合っている。店の人は客の近況を聞き、客は店の景気を心配している。そういう人間関係の中で地域のつながり、それに人情がある。ところが団地に住んでいるとお隣同士でも家庭事情も知らなければ、誰がいるのかさえ知らない。買い物はスーパーのチラシか何かで知った安売りを求め、あとは高くても百貨店で買う始末。最近では通信販売という全く人間の見えない商品が流行っている。商店街が賑やかになることは経済成長に反するかも知れないが、人間関係を豊かにし、お節介と迷惑の掛け合いという私にとってもっとも望ましい環境を作ってくれる。毒入り缶ジュースなどそういう環境では別世界の出来事である。   

Posted by taichiro at 1998年09月21日 09:28