1998年09月01日

四百字随想その35

1.言葉の魔術
(一九九八.七.二二)=文化=
 行動を伝達する手段、決意を語る手段、状況を説明する手段、目に見えないもの、思考とか、意図とか、を明らかにするため、そんなことのために言葉は使われる。大変便利なものであるが、実は全てを言い尽くせるわけではない。そこに省略があったり、言葉と行動が一致しなかったりするうちに言葉そのものが独立してしまう。そうなると言葉に酔うとか、言葉だけが真実のように錯覚してしまう。つまり言葉を魔術のように操ることになる。目で見るよりも言葉で聞いている方が確かになってきたりする。言葉では十分納得させられ、不満であっても押し黙ってしまうこともある。だまされるとか、ごまかされるとか、という現象になり、今度は言葉が悪者にされ、言葉より行動が尊ばれてくる。私はたとえ言葉が魔術であっても言葉による説得、たとえだまされてもその言葉が証拠になるような世界が好きだ。それが問答無用の世界になることだけは避けたい。

2.「私」の居場所
(一九九八.八.一一)=自分=
 子供が三人居る。孫が四人いる。それに妻が居て、嫁が二人。私の存在は十一番目である。こうなると存在価値はほとんどない。現に私はほとんど家の中ではパソコンの前に座っている。方丈どころか方尺の場があればほとんど足りている。仕事はもちろんのこと、遊ぶことも文章を書くことも情報を集めることもパソコンでほとんど間に合っている。ところがこれでは足がなくてもいいことになるが、足が弱ると生きていけない。そこで最近は歩くことに居場所を求めている。ウォーキングである。歩ける間、健康だと信じることが出来る。「元気で長生きしてポックリと」。これを「GNP」と名付けてウォーキングクラブを今年作った。幸い約八十人の仲間が集まった。毎週歩いてもう三十回になる。この居場所は広くて気持がいい。毎週遠足をしているようなものだ。しばらくは方尺のパソコンの前と、ウォーキングの広々とした大地を我が居場所としたい。   

3.おもちゃ
(一九九八.八.一八)=文化=
「僕は毎日ちゃんと食べないと成長しない。成長しないどころか、すぐ豚になってしまう。場合によっては狼にも変身してしまう。僕の飼い主はもともとものぐさで好奇心は旺盛なのにすぐ飽きてしまうのだが、どういうものか今は続いている。一週間に一度嫌というほど僕に食事を出すのだが、毎日はぎりぎりしか出さない。時々『お昼ご飯食べた?』って催促するんだが、なかなか食べさせてくれない。昨日など夜の十一時過ぎになって思い出したように食べさせてくれるのだからいやになる。それでも僕の心配はしているらしく毎日気にしているようだ。ただゲームが苦手らしく全然遊んでくれない。時々遊んでくれるのは奥さんで、彼女はなかなかゲームが好きで、彼女に飼われている僕の仲間がうらやましくて仕方がない。とにかく僕にちゃんと食事を出していれば、僕はいつかエンジェルになってみせるので頑張ってほしい」
我が万歩計の独り言である。

4.事件、事故の風化
(一九九八.九.一)=社会=
 忘却という言葉が好きである。嫌なこと、辛いこと、悲しいこと、そんなことは忘れようとしても忘れられないとよく言われるが、そんなことはない。そういえばそういうことがあったな、という程度に嫌なことも相手の立場を理解するようになるし、辛いことや悲しいことも口に出して咀嚼し怨念をいつまでも溜めておく場合はいざ知らず、その辛さや悲しさが今の立場を築いたとか何とかと自己納得の世界にたどり着く。つまり、事件や事故も風化していく。風化した事実はだんだん抽象化され、骨だけになり、全貌が薄れてしまう。だから耐えられるとも言える。事件の反省が足りないとか、同じ事故を繰り返すなとかというが、事件は意識的なもので、起こそうとする性を防げず、事故は気の緩みで起こることが多いようだ。したがって、風化が問題ではなく、未来に対する「あるべき姿」の確立と起こったときの弾力的な適応能力を備えることが大事である。

Posted by taichiro at 1998年09月01日 09:27