1998年03月11日

四百字随想その30

1.いま言論の役割
(一九九八.三.四)=社会=
 「言論の自由」という響きのいい言葉がある。ところがここにいう自由という意味が一人歩きして何でもかんでもいい放しで、その言葉に責任も持たず、人がその言葉に反論しようが、賛成しようがそんなことは関係ないという態度が見える。何か反論しようものなら、それは言論の自由を束縛するのかという態度である。しかも言葉が人の尊厳を傷つけようが軽蔑しようが関係ないというようなことになっていることがある。こういう言論は不毛のものであってかえって言論の無力さを証明しているような気がしてならない。事件が起きてからこれでもかこれでもかという決め付け方、そのくらい分かっているなら何故事件が起こらない前に言わないのか。もうそんなことはとっくに常識だというような評論家と称する方々。そういう方は共犯者だと言っても差し支えない。今、真剣に言論の役割を考えないと無力さがますます増えてくるような気がしてならない。

2.自転車の盗難
(一九九八.三.一一)=自分=
かつて娘が中学生のころ、習字の稽古に行って自転車を盗まれたことがある。私が帰宅したのは夜の十一時過ぎ。その話を知って家族総動員、近くの駅を探し、商店街を探し、ゴミ捨て場を探し、あらゆる探索を行い、午前三時頃までかかって見つからず、交番に届けた。徒労に近い話ではあったが、鍵をかけ忘れ盗まれた責任を娘だけでなく家族一同が認識するため、努力を費やした。ところが三日後、交番から連絡があり、見つかったとのこと。もういい加減使い古した自転車が戻ってきたのである。家族の努力が無駄ではなかった。ものを大事にする心、このとき、家族は古ぼけた自転車一台に愛着を覚えた。このあと何一つ盗まれることなく、ものを大事に徹底的に使うことを、そしてものにも話しかけることが出来るようになった。飽食の時代、我が家ではこの盗難事件をきっかけに子供たちも考え方が変わった。私には見も知らぬ盗人が教育の恩人となった。
(平成一〇.三.一一東京新聞夕刊掲載)

3.定期テストの廃止
(一九九八.三.一八)=社会=
定期テストの廃止には反対である。もともと定期テストは何のためにするのか。どうも世の中では生徒のためにするとの認識があるようだが、私は教師のために行っているものと見ている。自分が教えたことがどれだけ生徒に伝わったか、どれだけ理解されたか、それを知るためである。その結果、生徒の点数が悪いとき、反省するのは教師であるはずである。自分の教え方に間違いはなかったか、教えたことを生徒は理解したか、それを知るよすがである。かつて私は九五点をとっても教師から呼び出されたことがある。その五点の間違え方についてうっかりミスなのか本質的な理解が行き届いていないせいか確かめられたものだ。その結果、うっかりミスであったことを徹底して鍛えられた。日頃の成果を定期テストで確かめるということ、この成果は教師のものである。その成果を確認しないということは単に生徒に迎合した教師の怠慢以外のなにものでもない。

4.お花見の楽しみ
(一九九八.三.二五)=季節=
桜の花は私にとってどういうものか、入学式に結びつく。子供三人。幼稚園、小学校、中学、高校、大学、そして下二人は大学院。二十回近く、入学式に参加した。華やかで明るく希望に満ちた雰囲気である。桜の花がよく似合う。この楽しみがなくなった今、ウォーキングのコースづくりに花見の名所を調べてみた。驚くほどたくさんの名所がある。とくに東京は素晴らしい。職場にいたころ、花見の場所取りをさせられたり、どんちゃん騒ぎをするのが嫌で嫌でたまらなかった記憶があるが、よく考えると花を見てはいなかった。最近やっと花の命の短さ、それでいて毎年また盛りがやってくる美しさの意味が分かってきたような気がする。生きているということ、人生よりも長く木が生きているということ、そういう木が環境の変化にも負けず、年々歳々花を咲かせる気概、そこに人間が学ばなくてはならない生き様がある。今年はじっくり花見を楽しんでみよう。
(平成一〇.三.二五東京新聞夕刊掲載)

Posted by taichiro at 1998年03月11日 16:12