1998年02月25日

四百字随想その29

1.バリアフリー
(一九九八.一.二一)=社会=
 大きくは国と国との間を含めていろんな場面で境界があり、障壁が横たわっている。また、このバリアはよく目に見える場合もあるが、ほとんどの場合、目に見えないものとして、意識の中で、いや無意識の中で横たわっている場合が多い。一種の差別感のようなものである。これが単なる種類分けや学術的なものであればそれなりに意味があるが、政治の世界、経済の世界、宗教の世界に持ち込まれると闘争に結びついてしまう。これまで厳然と横たわっていたもの、また当然としていたものの中にあまりにもこのバリアが多くあった。建築基準でもいわれているこのバリアフリーの思想、あらゆる側面から検討し直す必要がある。地球は広く大きいようであるが、全宇宙から見るとゴミにも見えない存在である。そういう存在の中で勝手なバリアを築く愚かさにやっと気づいてきたと言えるかもしれない。境界をはずそう。障壁をなくそう。差別を捨てよう。

2.親離れ子離れ
(一九九八.一.二八)=自分=
 我が家だけでいうなら、長男は二十一歳で結婚、次男は二十五歳で結婚、学校を離れた瞬間、親離れしていった。一人残る娘だけ、二十五歳になったが、親の家から職場に通っている。ところが親である私はいつまで経っても子離れしていない。子供のことが気になり、孫のことが気になり、いつまで経っても口を出している。その上、好都合なことに子供たちはあらゆる意味で私のブレーンになっている。コンピュータのことは長男、エネルギーのことは次男、演劇や外国事情などは娘と大変貴重な情報源になっているため、子離れが出来ない。今やおんぶお化けのような存在である。親離れは出来る子と子離れの出来ない親、矛盾した関係のように見えるが、私にとって理想的な関係である。私がいつまで経っても若々しくいられること、好奇心の固まりでいられること、若い人たちと対等に話が出来ること、これは一にかかって子離れしないことによる効果である。
(平成一〇.一.二八東京新聞夕刊掲載)

3.バベルの塔日本
(一九九八.二.四)=社会=
いつまでもいつまでも登り続けてたどり着くことに飽き足らない目的感。与えられたものはいったい何なのだろう。限界を知らないことがこんなに貧しく醜く情けないことだとは考えないのだろうか。私は今、歩くことに情熱を傾けている。永遠に歩き続けるということではなく、一日五キロ歩く、ただそれだけである。歩ける自分と歩ける環境に感謝している。健康のために歩いているのではなく、歩ける健康を確かめているようなものだ。かつて娘が足のない鳥をテーマに8ミリビデオを作ったことがあるが、美しく華やかに飛び続ける鳥には足がなかった。休息が出来ないのである。休息は死を意味していた。これが今の日本を象徴して描いていたとは七年前、残念ながら気がつかなかった。バベルの塔、上れども上れども同じ道にしかたどり着かない。しかし、この道を上ると考えずに回る道と考えれば繰り返しの中に意味を見つけることが出来ると信じたい。
(平成一〇.二.四東京新聞夕刊掲載)

4.経済の活性化
(一九九八.二.二五)=経済=
 経済とは本質的に活性化させるべきものなのであろうか。高度成長、国民所得倍増、バブルの膨らみ。そういう中で静かに深く浸透していたもの、そういうものが今はじけた状態の中で浮かび上がってきたもの。それは望ましいものであったのだろうか。活性化した経済の中でどす黒く渦巻いていたものが誰の目にも留まらず、いや留まっても問題にされず、突き進んだ結果ではなかろうか。限度をわきまえた目的感、進む方向を正しく指し示すもの、それを金銭感覚による活性化では示すことは出来ず、永遠の飢餓感は滅亡以外解決の方法はあり得ない。経済では計り得ないもの、たとえばものを使い尽くすこと。全ての生物にとって望ましいもの、ひいては地球の生命を本質的に延命させうる尺度、そういう価値の確立を図る必要がある。無目的な経済の活性化は、もう一度同じ轍を踏む愚かさを人間が犯し、この限りなく美しい地球を破滅に追い込むことになる。

Posted by taichiro at 1998年02月25日 16:03