1998年01月14日

四百字随想その28

1.カレンダー
(一九九七.一二.一七)=自分=
 今、私にとってカレンダーはなくてはならないものになっている。とくに組織に所属せず個人で仕事を始めスケジュールを自分で決め、自分の好きなようにいろんなことをやろうとするとカレンダーは自分自身の指針であると同時に自分の軌跡にもなっている。そのため当然ながらカレンダーは書込だらけである。こういう書込を手帳にするのが普通だが、手帳は自分だけのものになり、自分が忘れたり、自分自身がその場にいないと誰にも分からなくなる。これは個人で仕事をしている場合、非常に危険である。少なくとも家族には共通の情報にしておき、相互に助け合うことにしている。最近では娘も働き始めたため、娘の行動も記録している。マジックの色で一目で分かるように分類しながら記入している。そういう意味で役に立つカレンダーを今年も二百本作り、お世話になった方々にお歳暮代わりに送った。いつの間にか四年目になり他の人からも重宝されている。

2.正月、どう過ごす
(一九九七.一二.二四)=季節=
 この正月、私はウォーキング三昧で過ごしたいと思っている。九月から江東区の健康センターが主催した「ウォーキング十二週間」に参加して無事終了することが出来た。ウォーキングの目的は、GNP。つまり「元気で、長生きして、ぽっくり」。この「ぽっくり」が気に入って何でも三日坊主が多かった私が珍しく長く続けている。歩幅が身長の四五㌫時速約六キロ、両手に何も持たずに一日二キロ以上歩くというそれだけのことがおもしろくなってきた。今まで気にもかけず見えなかった路傍の石が見えてきた。それに風のそよぎ、草花の変化、ゴミの違いなど、季節の移り変わりの素晴らしさも分かり始めた。この正月をウォーキング元年にして、これから何年続くか、自分に対する課題としてスタートしたいと思っている。小さなこの行為が地球温暖化の防止に繋がり、医療費負担の軽減に寄与することになれば、こんなにおめでたい話はない。

3.禍を転じて福に
(一九九八.一.七)=社会=
 禍とは何なのだろう。交通事故に遭う。バブルがはじけた。円安になった。老親が亡くなった。そういうことだろうか。だが、交通事故にあったおかげで休みたくても休めなかった休みが取れるかも知れない。バブルがはじけたおかげで高嶺の花だったマンションが手にはいるかも知れない。老親が亡くなったことで介護の苦労から解放されたのかも知れない。円高時代、輸出の苦しみを云々し、経済破綻の原因にしたが、円安になった途端、どういうものかもっと経済が悪化するようなことを言っている。一体どちらが正しいのか。もともと禍とか、福とかという言葉は客観的なものではなく、主観的なものである。その上、人間の向上心というものが曲者で、物事を何でも禍に見たがる傾向がある。私は逆に何でも我田引水、全てをいい方に考えている。たとえばこの投書が載れば自分の主張が通ったことだし、ボツになれば相手の見る目がなかったと考えることにしている。

4.出よ、救世主
(一九九八.一.一四)=政治=
 孔子の言葉の中に決して許してはいけない人物を五つ上げているそうである。一.心逆にして険なる者、二.僻にして堅き者、三.偽って弁なる者、四.醜にして博き者、五.非に須って決なる者、となっている。二千五百年たった現在でもこういう人物がリーダーになってはいけないはずである。一つの理念を遂行しようとするとき、理念が理想的であればあるほど反対者は多いはずである。右顧左眄しながら何かを遂行する時代はもう終わっているようである。犠牲を強いる政治、犠牲の伴う経済、自己中心的でなく地球全体の、生物全体の立場から物事を考えられるリーダーの存在が必要である。経済成長の行き着く先は何なのか、もうそろそろ実験は終わってほしい。科学が追究したものの功罪、宇宙遊泳により得たものより失ったものの価値を正当に評価できるリーダーがほしい。衆愚に惑わされない人物。そういう存在は期待できないのであろうか。

Posted by taichiro at 1998年01月14日 16:00