2000年02月27日

四百字随想その21

1.携帯電話 (1997.6.4)=自分=
 (平成9.6.4東京新聞夕刊掲載)
私にとって携帯電話は、動く事務室みたいなもの。ただし、この電話番号を知っているものは事務所のものだけである。どこに居ても連絡が入ってくる。
こちらがかける場合はそのまま携帯電話でどこにでも話が出来る。その上、事務所が留守の場合には転送で携帯電話に内容が入ってくる。
外を歩いている場合、かけようとするとなかなか公衆電話が見つからない。見つかっても人が入っていてすぐにかけられない場合が多い。本当に便利である。ただし、電車の中やバスの中などでは注意している。
バイブレーター式であるから音はしない。これ見よが式の電話はしないことにしている。第一内容を人に聞かれたくないと考えているため、そんなことはしない。
便利なものを使うとき、そのために人に迷惑をかけてはいけない。そのたしなみだけは忘れたくない。
ただ、最近そんなに急いでどこに行くの、という疑問が若干ある。忙しくなることだけは事実である。

2.銀行・証券の倫理 (1997.6.11)=経済=
倫理は存在するところに存在するのであって、存在しないところには存在しない。しかも倫理は自分で決めるものであって人からとやかく言われるものではない。
人が決めるものは法律である。法律以前のもの、犯罪以前のものが倫理である。
人の財産を預かっているということに対する気概のようなものが、今の銀行家や証券マンに本当にあるのだろうか。国会に出てきた人たちの答弁を聞いてそういうものが一切感じられなかったのだが、それは聞くものの僻みだろうか。
彼らにとって総会屋の存在を知らないことがステータスシンボルのようである。何十億という貸し倒れの事実がありながら今、調査しなければ担当者も貸し付け理由も知らないそうである。そういうことを公開の席上で堂々と言えるわけであるからすごい。
でも、それでも預金者が動かないのだからやむを得ない。金利が10分の1に下がっても平気で預けている。
倫理の存在する余地はない。

3.水不足と水害と (1997.6.18)=社会=
(平成9.6.18東京新聞夕刊掲載)
地球上の資源の中で水ほど確実にしかも目に見える形で、まるで輪廻のように純粋の形で循環している資源はない。どんなに汚染されようともどんなに分解されようともまた水になって戻ってくる。
その水が不足すると水不足になり、多すぎると水害になる。均等な形で供給され、均等に消費する形があれば問題ではないのだが、水の所在は必ずしも均等ではない。ただ人知は自然の供給を支配するところまで及んでいない。
出来ることはただ一つ。大事に使うことだけ。幸いにして、日本は水の供給に関しては行政の力で非常に適切になっている。
問題は使い方である。一人一人の意識が水に向けられればほとんど水不足は解決する。水害もほとんど起こらない国になってきた。
治水という意味では日本の国は世界の国には引けを取らない。ただ貴重なこの資源の使い方が問題である。
一人一人にできること。その易しいことをみんなで守る精神の向上が必要である。

4.ことばの乱れ (1997.6.25)=文化=
通常、言葉の乱れを議論する場合、いろんな仲間内の言葉を捕まえて、ああでもない、こうでもないと言っている場合が多いが、それはナンセンスである。
例えば、女子高生がこんな言葉を使って恐ろしいとかなんとか言っているが、仲間の中で仲間意識の結果、他の人に分からないように言おうとしているのであって、そういうことを取り上げることは無意味である。
それよりも乱れを言うならば一番問題なのはテレビとかラジオで絶叫的に喋ったり、変なイントネーションを使ったりしていることである。自分が一体何様だと思っているのか、不思議な気がする。
新聞というものが、ある面では言葉とか、文字については一つの見識を持ち、またリーダー的な役割を持っているが、テレビやラジオの世界にもう少し、指導的な立場を発揮してほしい。
その場合、仲間内で使う一種の隠語と不特定多数を相手とする言葉を峻別して議論しないと本質が埋もれてしまう。

Posted by taichiro at 2000年02月27日 13:41