2000年02月23日

四百字随想その19

1.規 制 緩 和 (1997.4.9)=経済=
 (平成9.4.9東京新聞夕刊掲載)
図式的に、規制はなんらかの意味で悪であり、規制のないことが善であるという前提で議論されているようだ。もともと規制など作らなければ良かったという前提である。
規制という言葉を遡っていくとたぶん法律に結びつき、法律はもともと道徳とか、習慣とかに結びつき、それ自体は人間が社会生活を営む上のルールみたいなものだ。単純なことを言えば物を買う、お金を払う。こんな簡単なことでも規制がなければ、強奪してもよくなり、強いものが勝ち、弱いものが負けるという単純なルールにならざるを得ない。
つまり規制は常に弱者救済のはずである。規制は強ければ強いほど弱者が優遇されるはずである。その規制緩和を求めるものは、本来強者から出るはずである。
ところが場合によっては強者救済のような実体になっている規制、これだけを見直すべきである。
規制の実体を冷静に判断して議論しないと、とんでもない結論になりそうな気がしてならない。

2.先輩・後輩 (1997.4.16)=文化=
学生時代に恐いもの、社会人になって役立つもの、ある地位まで来るとじゃまになるもの、年寄りになると困るもの。これは後輩から見た先輩観である。
逆に先輩から見ると、学生時代は可愛くていじめ甲斐のあるもの、社会人になると威張れるもの、ある地位まで来ると利用できるもの、年寄りになると頼れる存在、これが後輩観である。
こうしてみると、先輩と後輩はどうも対立関係にあるようだ。これが日本の年功序列と重なって複雑な人間関係を形作っている。しかも、小学生時代、中学生時代、高校時代、大学時代、それに職場に入っても、趣味の世界でも芸術分野のような世界でも存在するから複雑怪奇になって気を使うことおびただしい。
ところで学生時代はいざ知らず、社会人になってからの「先輩!」という呼びかけには気をつけたほうがいい。
後輩と先輩の地位が逆転した場合の呼びかけになってしまい、結果的には蔑称になっていることが多い。

3.なれあい亡国 (1997.4.23)=政治=
 (平成9.4.23東京新聞夕刊掲載)
平和を維持するためには、もともと馴れ合いが必要である。いちいちギシギシと異議を申し立てたり、箸の上げ下ろしまでけちをつけると争いしか起こらない。
したがって馴れ合いそのものは決して悪いものではない。世の中の潤滑油みたいなものと考えたい。
ところがこの馴れ合いが進むとお互いに傷を舐めあうというか、やってはいけないことをお互いが隠すという現象が起こり、それが進むとわざわざ悪いことを姑息な手段で隠す現象が起き、自分勝手な論理を用いてくる。
ここに住専の問題や動燃の問題、それによく考えるとオウムの問題にも共通点が見えてくる。もしかすると沖縄問題にも言えるような気がしてならない。つまり、本質を離れたところでなれあうのが問題である。
もっと自然そのものになれあうこと、もっと本質になれあうこと、もっと地球になれあうこと。
そういう馴れ合いの結果、国が亡びても一向構わないし何の問題もない。

4.節目の憲法 (1997.4.30)=政治=
 (平成9.4.30東京新聞夕刊掲載)
50年間、日本の憲法は変わらなかった。
その日本はその間、何と言われようと何と批判されようとも憲法そのものを他国から批判されたことはなかった。戦争の定義、軍力の定義、平和の定義、人権の定義、いろんなもので紆余曲折は現在でもある。
しかし、憲法上、その範囲での侵略はやむを得ないとか、憲法上、それは強腰でもなんでもないとかというような批判は受けたことはない。
憲法があるがゆえに弱腰にならざるを得ないとか、敗戦時に与えられた憲法だからとか、今の時代にそぐわないとか、他の国では毎年のように変わるものだとか、そういう言い方である。
どんな時代になろうとも基本的にこの憲法のもとで、これだけの発展を遂げ、これだけの国になったことは、誇りにしていいものである。不変であったことを悔やむ理由はどこにもない。
世界中が、日本と同じ憲法を持てるように大いに啓発し、啓蒙することが出来るすばらしい憲法である。

Posted by taichiro at 2000年02月23日 14:44