2000年02月23日

四百字随想その16

1.敬愛する人物像 (1997.1.8)=自分=
 敬い愛する人物。よく考えると難しい。敬うということと愛するということは矛盾するように思える。例えば、孔子を敬愛するというふうに言うと何かそぐわない。お釈迦様をと言ってもおかしい。
 天を敬い人を愛する、つまり敬天愛人と西郷隆盛が言ったそうであるが、これなら分かる。
 そこで娘に聞いてみたところ、ただちに答が出た。大学、大学院と6年間お世話になった担当教授である。まさに妥当な答であった。それこそ日夜を分かたず、学問のため、学生のため、活動されていた。
 父親である私の目から見ても真摯にそして真剣に1日1日を生きておられる。一所懸命、何かに、それはお金のためでもなく生活のためでもなく、人のため世のため、活躍されている姿はすばらしい。
 銀行の頭取、証券会社の社長、国会議員らが本来なら敬愛されていいはずだが、言行不一致の彼らには、ほとんどの場合、敬愛される存在に自らなろうとしていないようだ。 

1.敬愛する人物像 (1997.1.8)=自分=
 敬い愛する人物。よく考えると難しい。敬うということと愛するということは矛盾するように思える。例えば、孔子を敬愛するというふうに言うと何かそぐわない。お釈迦様をと言ってもおかしい。
 天を敬い人を愛する、つまり敬天愛人と西郷隆盛が言ったそうであるが、これなら分かる。
 そこで娘に聞いてみたところ、ただちに答が出た。大学、大学院と6年間お世話になった担当教授である。まさに妥当な答であった。それこそ日夜を分かたず、学問のため、学生のため、活動されていた。
 父親である私の目から見ても真摯にそして真剣に1日1日を生きておられる。一所懸命、何かに、それはお金のためでもなく生活のためでもなく、人のため世のため、活躍されている姿はすばらしい。
 銀行の頭取、証券会社の社長、国会議員らが本来なら敬愛されていいはずだが、言行不一致の彼らには、ほとんどの場合、敬愛される存在に自らなろうとしていないようだ。 

2.ちょっといい話 (1997.1.22)=自分=
           (平成9.1.22東京新聞夕刊掲載)
 最近、パソコン通信で囲碁を楽しんでいる。
 全国どんな人とでも打てる。だいたい200手ぐらいを打つわけだから、毎日お互いが最低1手ずつ打っても3か月ぐらいかかる。実際は1か月から半年ぐらいである。
 その間、軽いコメントをお互いに書きながら打っているわけだが、このコメントがおもしろい。普通の対話とかパソコン通信ではこんなに長い間会話が続かない。ところが碁を打つという必然性があるため、いつまでも続く。
 私の相手は常時10人ぐらいの方だが、その一人とは、1年間で10局打ったわけだから、約2,000回も話している。統計的な話では全部で1年間に7,000回を超えた。平均100字から200字書いたとして、実は、100万字にもなっているわけだ。
 おかげで全国に今まで全然知らなかった方と知り合いになることが出来た。しかも結構本音で話が出来た。その上、囲碁も相当に腕が上がった。
 私にとって、このボード碁対局はちょっといい話なのである。

3.危 機 管 理 (1997.1.29)=政治=
 流行り言葉で、何だかこの言葉を使うと立派に見えるから不思議である。
 ところが「危機管理」がしっかりしていたので助かったというような話は聞いたことがない。こういうことになったのは危機管理がしっかりしていないからだとか、日頃から危機管理の意識を持つべきであるとか、結果論として否定的な意識の中で使われることが多い。ところがそんなことは役に立たない。
 通常の思考では絶対に解決できないもの、予測なんかできっこないことが起こったときに如何にあるべきかであって、テロ対策がどうのとか、地震対策はどうだとか、石油汚染が起こったときはどうとか、そんなことをあらかじめ考えることが危機管理ではない。
 つまり、予測しえない事態が起こったとき、事前ではなく事後にどれだけスピーディーに弾力的にかつ過去にとらわれずに解決できるか、これが危機管理の本質である。
 したがって、危機管理は、抽象的でしかも精神的なものだと、私は信じている。

4.ボランティア (1997.2.5)=社会=
 私は、このボランティアという言葉が嫌いだ。
 日本にない言葉だから、カタカナ用語になったものと考えて差し支えない。言葉がないからと言って、この理念がないかと考えるとそうではない。つまり、当たり前のことであったわけである。
 困っている人を助ける、自然災害にみんなで立ち向かう。そんなことは当然のことであってボランティアなどという概念はなかったはずである。
 ところが、この当たり前のことが当たり前でなくなると、そんなことをお金ももらわずにできるかという発想が生まれ、ただでそういうことをする人が特別視され始めたような気がする。
 人間が自分に出来ることを出来ない人のために行なうこと。これは報酬の有無ではなく、喜びである。政治とか、医者だとか、資格業務とか私に言わせると全てそういうものである。
 本来は普通にできたことを貨幣経済が出来なくさせ、ボランティアという特殊用語を生み落としたような気がする。

Posted by taichiro at 2000年02月23日 13:42 | TrackBack