2000年02月23日

四百字随想その14

1.これはおかしい (1996.11.6)=社会=
 近頃おかしきもの、1人区で落選しても平気で国会議員。おかげで比例区だけで立候補した人は落選するわけだが、喧嘩したという話は聞かない。
 小さいお金を借りると抵当権、火災保険、生命保険、保証人、その上ローン保障までさせられて、まず貸倒れしようにも貸倒れができないが、どういうわけか大きなお金を借りると簡単に貸倒れができるようだ。大きな話で自己破産したという個人の話を聞かないが、主婦とかサラリーマンの話は聞く。
 1ドル100円が110円になったことをわざわざ円安と言ってドル高とは言わない。どうせ翻訳するなら、1,000円が10ドルだったものを9ドル9セントで買えると言えば分かり易いがそうは言わない。
猫も杓子も大学大学と言っているが、高卒程度の初級公務員試験に一年浪人して受けるそうだ。合格者の半分以上が大卒になってきたそうだ。
 書き出せばきりがないほどおかしいものがあるが、だんだん当り前になるのが恐ろしい。

2.行政改革 (1996.11.13)=政治=
          (平成8.11.13東京新聞夕刊掲載)
 「行政改革」、言葉だけで聞くとこれほど響きのいい言葉はない。誰が言っても似合う言葉である。とくに政治家が言うと真実味がある。
 ところが、具体的な話は聞こえてこない。むしろ、予算請求というかいろんな面でこれをしろあれをしろ、とか、これからはこうしたいとか、こういうことはやるべきだと言う声だけ聞こえる。
 そしてこういう話は具体的だ。窓口の親切、施設の拡充、保護の見直し、それにスピード化、効率化、そんなことが、どういうものか毎年うたわれる。
 矛盾を感じないのだろうか。
 私たちは本気になって行政改革を進めると言うならば、積極的に不必要であるものを唱える必要がある。サービスの低下を望まなければならない。予算の削減を当事者が望まなければならない筈である。理想を追い求めている限り、行政改革は不可能である。
 理想を捨てること。安定を捨てること。保護を求めないこと。果たして、それができるのだろうか。

3.年 賀 状 (1996.11.20)=季節=
 「年賀状」は楽しい。私は今、自分の作った年賀状を眺めている。
 18の年から出し始めているが、今目の前に残っているのは、昭和38年の分からで、暑中見舞いの分と合わせていつのまにか相当の数になっている。暑中見舞いが、何となく転勤の挨拶を兼ねることが多かったため、ありきたりのものであったが、それに比べ年賀状はバラエティに富んでいる。
 印刷方法だけみても、ガリ版刷りのもの、版画で作ったもの、ワープロで作ったもの、写真を使ったもの、プリント何とかで作ったもの、ドットプリンターを使ったもの、レーザープリンターを使ったもの等々、器具や道具の歴史さえ示している。
 と同時に自分の心の動きや経済状態、その上家族の状況まで見えてくる。今見るとこんなものよく出せたなと思えるものさえあるが、それがその年の精一杯の努力であったことを知ると、自分のことではあるが微笑ましくなってくる。
 今年も出そう。

4.残り一月活用法 (1996.11.27)=自分=
 年の終わり、師走である。昔であれば数え年で年齢を数えるので、年を越すことは大変であった。ところが最近は満年齢で年を取るため、年を越す意義が薄れたように思う。
 第一、年末行事というものが少なくなった。ただ約1週間から10間ぐらいの休暇が取れる時期だというぐらいの実感しかない。普通の月ととくに異なるところがない。
 今年してしまうという感覚は、年度のことのような感覚があって、お役所も会社もほとんどが3月末が末日である。
 その中で唯一に近い締め切りが個人所得の決算である。私の仕事としては、この話と、給料をもらっている方の年末調整が中心になる。この1月、翌年ではできないことのためのアドバイザーに徹して仕事をしたいと思っている。
 その日1日、精一杯自分のできることをやり遂げさえすれば、それ以上のことは逆立ちしてもできないものである。普通の月と変わらずに仕事をすること、これが私の活用法である。

Posted by taichiro at 2000年02月23日 13:36