2000年02月23日

四百字随想その11

1.こども受難時代 (1996.8.14)=社会=
     (平成8.8.14東京新聞夕刊掲載)
こどもは本来、いつの時代でも弱者である。人間の中で子供ほど弱いものはない。
その子供を保護することは親の本能的義務である。これは無知蒙昧であればあるほど、それに動物的本能に近ければ近いほどそうなる。ただし、この保護は独立したとき、どんな孤独にもどんな迫害にも耐えられる力をつけるための保護である。
そして強靱な体力と怜悧な頭脳と協業に耐える協調心を養っていくためである。この能力があるものだけが生き残っていく。
そういう教育を、今、家庭で本当に子供にしているだろうか。子供が労働力の一端を担っているだろうか。茶碗を洗うことも知らない、洗濯もできない、掃除もできない。ましてや便所掃除などとんでもない。ただ勉強さえしていればいい。それが教育だろうか。何の能力も持たないまま、数学ができたり、英語ができたりして一体何の役に立つのだろうか。
私の考える受難の最たるものは保護概念のはきちがえである。

2.O157と日本 (8.8.21)=社会=
     (平成8.8.21東京新聞夕刊掲載)
「O157」という表現、単なる記号で言葉として成熟していない。
流行り病がこういう表現で世間に流布されているところに今の日本の特徴があるような気がしてならない。何か不可思議なもの、そして冷たく感じてくる。
ただただ責任の追及みたいなものが行なわれ、何か発表されると大騒ぎをするだけである。どんなに一所懸命取り組んでいてもそのことをはっきりさせればさせるほど追求は厳しくなる。それなら分からなかったとか知らなかったとかそういう無責任な態度がたとえ何と言われようと正しくなるし、そうしたくなるような現象が日本にはある。
スケープゴードが見つかるとそれこそこれでもかこれでもかといじめ倒している。もう少し冷静にもう少しゆっくりともう少し暖かく事態を見守ることはできないものであろうか。
一種の思い込みのようなもので、未知のものに対する追求が激しすぎる。分からないことは分からないのである。

3.政治混迷に直言 (8.8.28)=政治=
     (平成八・八・二八東京新聞夕刊掲載)
今、政治が混迷していると言えるのだろうか。
混迷していない政治とはどんな政治を指すのだろう。どこかよその国で理想的な適切な政治をしている国があるのだろうか。そこには犯罪もない。貧乏もない。病気もない。戦争もない。そんなユートピアのような政治があるのだろうか。
何か事があるとすぐに混迷というが、本当だろうか。
確かに住専問題がある。沖縄問題がある。エイズ問題がある。O157問題がある。それに最大の問題は選挙。選挙も行なわれないで時の総理大臣が四人も代わった。それが混迷というのだろうか。
政党も分裂したり、併合したり、連立政権も何がなんだか分からないまま野党になったり、与党になったり、そのことが混迷と言えば混迷ではあるが、ではどうなれば混迷でなくなるのか。これほどたくさんの材料を提供してくれる政治は希有のことである。
こんな有難いことはない。国民は豊富な材料から確かな選択ができるはずである。

4.天災・人災 (1996.9.4)=社会=
「天災は忘れた頃にやってくる」という使い古された常套句があるが、これを人災に当てはめると、「人災は気が緩んだ頃やってくる」とでも言えるのだろうか。
よく天災と人災を対比したもののように言われるが、私はそうは思っていない。大きく言えば人災も天災の中の一部分であり、人為的な部分が大きいものを人災といっているのではなかろうか。
例えば鉄筋コンクリートの建物の中に住んでいるとほとんどの台風に対して災害を被らないが、木造家屋に住んでいると災害にあってしまう。ただ、鉄筋コンクリートでも薙ぎ倒すようなものが来れば、話が大きくなり、その堅牢性が災害を大きくしたように見せる。そうするとそれを人災と言い始める。薬の開発でコレラやチフスが少なくなって天災は少なくなったが、その薬による副作用を人災という。
この矛盾をわきまえないと人災と称するものを針小棒大に悪者にしてしまう気がしてならない。

Posted by taichiro at 2000年02月23日 13:23